9月 9 2021
流れない時間の場所
以前のオンライン講演会で、奥行きが流れない時間としての持続の場所になっていることを分かりやすく図にして説明してみました。一応、ここでは時間の流れを左から右方向で示していますが、これは3次元意識での時間感覚と思ってください。4次元が見えてくると時間は持続の時間で示した矢印の逆方向になります。
このような配置で時間と持続の関係をイメージできるようになると現在と過去が共存している感覚がクリアに意識化されてきます。この現在における過去との共存がヌーソロジーが「いる」感覚と呼んでいるものです。これは、持続に触れていること。つまり、存在(生命)に触れているということを意味します。
ここから一歩進んで持続空間の中に分け入り、その内部がどういう構造になっているかを思考し、それを感覚に上げていこうとしているのがヌーソロジーです。それは具体的には、ヌーソロジーが次元観察子と呼んでいるもので表現されて行きます。
結果的に、そこに生み出されている世界が「なる」の世界へとなって行くとヌーソロジーでは考えています。「モノ」の本性、物自体の世界ですね。
奥行きに持続の位置があることを人間の意識が知ることを、OCOT情報では「方向覚醒」と呼んでいます。これは、精神が奥行きを通して外化し始めるということを意味します。この「方向覚醒」によって、精神と物質が一致した世界風景が徐々に意識に出現し始めるということです。「意識の位置」が見出されるということでもあります。
「位置」というと、普通私たちは空間的な点をイメージしますが、位置とは本来3次元空間上にポツンと打たれた点のようなものではなく、対象を見ることの中に潜む奥行き自身のことを言うのです。私たちは空間に点を見るのではありません。見ること自体が点だということです。そして、それは持続の働きのことでもあるわけですから、そのイマジネーションだけでも、そこでは見るものと見られるものの分離が消滅していることがわかります。
こうした持続としての異空における無時間の力は、時計的な時間と延長的な空間しか知らない物理学の中では運動の関数として記述されるしかありません。持続が時間と空間をベースに記述されている状態と言ってもいいでしょう。それが量子を記述する波動関数Ψの正体と見るのがヌーソロジーです。
そういうわけですから、主客を分離させた認識では量子の正体は永遠につかむことができません。その意味では、量子とは奥行きに潜んでいるひとつの先験的原理であって、科学的、経験的な概念では決してないのです。
9月 17 2021
最近の夢想
最近は存在を思考すること(芸術や宗教儀式等を含む)が最も重要な労働とみなされるような社会を夢想している(笑)。
生産重視の社会から見れば最高の怠慢というか、無駄飯食いのヒッピー的社会と言えるだろうけど、単純に人間の欲望が内在に向かうなら、そのような社会もアリだろう。古代はそういうものだったのだろうから。
バタイユなんかは生産ではなく、消尽を先行サセルベシとする普遍経済論なる過激な経済論を説いていたが、いずれにしろ、このオナニズム化した右肩上がりの経済発展信仰というヤツを生産性の欲望から撤退させるには、否定性の名の下に忘却された存在の場所を開くしかない。
アンタ方向が逆だよと。
バタイユの言うとおり、自然はエネルギーに満ち溢れている。太陽は何の見返りも求めることなく今日も地球にエネルギーを送り続けている。
純粋なる贈与がここにある。この贈与抜きには人間の世界なんてものは存在しちゃいない。
この膨大なエネルギーを発する元となる質量は一体どこからやってきたのか。それこそが富の源泉だ。真の生産だ。
この真の生産の謎を私たち人間はまだこれっぽっちも解き明かしちゃいない。
物理学は、ここで、やれカイラル対称性の破れとか、ヒッグス場とか、理屈を並べ立てるだろうが、失礼ながら、物理学者とて、それが何かなんてことには一言も答えられない。
エントロピーにしてもそうだ。エントロピー増大則で支配された宇宙に、なんで生命なんてものがいるんだ?
この自然界に満ち溢れる富の源泉・・・。その場所に経済の原点を見ないから、地球はこんなになっちまったんじゃないのかね。
生産のための消費なんて、もう誰もやりたがってないだろうに。
質量とは私たちの内在の力が作り出したもの、という発想がなぜ浮かばないのだろうか。
内在性の経済圏というものがあるんだよ。だから、私たちはこうして生きることができている。宇宙の風景を変えていかないと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: バタイユ