2月 17 2023
初めの言葉と終わりの言葉
有と無。この関係がまるまる逆転しているのが人間の意識の在り方と言っていい。
人間にとっては物質世界(存在者)が有で、精神の世界(存在)は無。
しかし、ほんとうは精神の世界(存在)が有で、物質世界(存在者)が無。
だから、「存在とは無」なんていうややこしい言い方が生まれてしまう。
この転倒関係がしっかり頭に入れば「なぜ無ではなく何かが存在するのか」というライプニッツの問いに対し、「なぜそもそも存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」と、その問いを言い変えたハイデガーの意図がよく分かるのではないかと思う。形而上学とは違って存在論は世界の見方が逆なんだね。
人間の悟性や理性は存在者にはアクセスできるけど、存在にはアクセスできない。一方、人間の感性は存在には現存在としてアクセスできるけど、存在者にはアクセスできない。というのも、存在者とは言葉の産物だから。つまり、言葉は知覚できないってこと。
「じゃあ言葉って何よ?」ということになるのだけど、それは存在の、更なる奥の存在としか言いようがない。それを”真存在”とでも呼ぶのであれば、言葉こそがもっとも深い存在とも言える。イデアよりロゴスの方が深い。「言とは神なりき——」。まさに、そういうこと。
そして、このロゴスと癒着してしまっているのが物質=存在者の世界なわけだ。ただ、この癒着を切らないと、中間的存在としてのイデアは決して見えてこない。そして、イデアが見えないとロゴスの世界も見えてはこない。
実は、時空→素粒子→重力の関係も同じ。今は時空が重力に囚われの身になって、素粒子の方向にまったく気づけていない。そして、ほんとうは素粒子を超えたところで重力は働いている。
ハイデガーが「むしろ無があるのではないか」と存在者の世界を疑ったのも、そこには”存在”が欠落しているからだ。
まさに聖書が言うように、わたしたちは「始まりのロゴス」の中に生きているにすぎない。このロゴスは終わりのロゴスの痕跡だ。このロゴスには、存在=イデアという中身が何もない。
それが問題なのである。
3月 13 2023
ヌーソロジーの存在論の骨子
客観の上に主観が成り立っているとする信仰は未だ根深い。
フッサールが提示した超越論的還元(一旦、客観をエポケーする)の考え方さえ、まったく一般化していない。そんな中でヌーソロジーは主観もエポケーしようという主張をしている。「はぁ?」となるのは当たり前の話。
「奥行き」の開示とはそういう話なのだ。純粋な奥行きを認識に立ち上げたとき、そこには主観(いる)も客観(ある)もない。奥行きは”存在”そのものなのだから当たり前だ。ただ、”なる”があるのである。そして、その最初の”なる”が素粒子に対応してくるのも理の当然というものだ。
素粒子になる………。そこからすべての”なる”が開始される。始源とはそういうものだろう。
ただし、OCOT情報ではこの素粒子の位相は”なる”ではなく”いる”の位相を作り出しているものだという。かれらの存在概念では、現象学に端を発した存在論と同じく、”いるもの”が”なるもの”を通して”あるもの”を作り出すのだが、この最初の”いるもの”を出現させるための機構が「素粒子」だと言うのである。
ヌーソロジーが素粒子を人間の経験的意識を構成するための超越論的な機構として考えるのも、その辺りの事情を組んでのことである。いわゆる「人間の反対の意識」というヤツがこれに当たる。
その設定からするなら、「顕在化」とは、人間の経験的意識が、この人間の反対の意識に当たる超越論的意識と交差を行うことを言う。つまりは、超越論的なものを意識化するということだ。そこで構成されてくる「なるもの」とは、物質的にはもはや素粒子ではなく原子だとOCOT情報は言って来ている。
つまりは、超越論的なものを顕在化させた意識の働きは、時空上では原子として見えているものに当たるということだ。「原子とはヒトの精神」という彼の言葉も、そのような意味合いから発せられたものだと思われる。
原子は原子核と電子が結合することによって生じるわけだが、このことは、彼らにとって、「物の外部が物の内部を見抜くこと」を意味していると言っていい。外部の意識核は電子、内部の意識核は原子核。両者がある意味で等化される状態を原子生成は表現しているわけだ。
プラズマ(原子から電子が剥離した状態)のことを「精神の錯乱」の反映と呼ぶのもそのためだ。代表例は太陽。太陽は水素とヘリウムからなる巨大なプラズマだが、これをOCOT情報は「人間の精神核」とも言う。その理由もなんとなく分かる。実際、人間の意識は物の内部と外部をまったく等化できていない。
その意味で太陽とは、「いる」の位相を作っている素粒子の全体性が集合している場と考えられる。つまり、宗教的表現でいうなら人類の集合魂のようなものである。
キットカット実験の全人類版のようなものを想像するといいだろう。私たちは宇宙という巨大な時空の中で、太陽を中心に地球が回っていると考えているが、ほんとうは、地球(すべての人間)から広がる時空の集合が反転して焦点化したところに太陽が生じているのである。
つまりは、太陽がなければ私たちの意識はない。
最後に、ヌーソロジーの存在論の骨子をもう一度簡単にまとめておくよ。
「あるもの」が「いるもの」を作り出しているんじゃなくて、
「いるもの」が「なるもの」を通して「あるもの」を生み出している。
そして、「いる」は「ある」が再び「なる」の方向へと方向付けられているところに生まれてる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, フッサール, 存在論, 素粒子