12月 14 2010
ヌーソロジーのワークショップ「元止揚空間の幾何学」
先の11日土曜日は今年最後のヌーソロジーイベントであるNOOS BANQUETを開催した。BANQUETと気どってはみたものの、要は忘年会、飲み会である。しかし、ただ単に宴会だけ開いても面白みに欠けるということで、アペリティフ代わりに簡単なワークショップを行うことに——参加者全員に各々36本の綿棒を配布してケプラーの星型8面体なるものをペーパーセメントを使って工作した。なんのことはない、こんなやつ。
このケプラーの星型8面体なるもの。これはヌーソロジーへの侵入口となる元止揚空間の概念を幾何学的にイメージしていくときにとても重要なツールとなる形象だ。今年行ったレクチャーシリーズでもこの形象についての解説はある程度行ったのだが、やっぱり、今回は参加者の一人一人が自分の手で実際に作ってみてなじめたせいもあるのだろう。同じ解説をしても前回のときとはまるっきり反応が違った。「なるほど、なるほど」といった納得のうなづきが会場のあちこちで確認できて、手を使って考えるという作業の重要性を改めて再確認させられた次第。
さて、元止揚空間というと何とも堅苦しい言葉に聞こえるかもしれないが、これは人間の認識にモノや空間という外在認識、さらにはそれを見ている「わたし」という主体の認識を提供してくる前-経験的、前-主体的な場所性のことを指す。。。やっぱ難しいか(笑)。。こうした空間の構成がアプリオリに設定されているからこそ人間は世界を主観(内在)と客観(外在)に分けて認識し、その認識をベースに自らの自我意識のシステムを形作って行くことができる。極めて現象学っぽい考え方だが、ヌーソロジーにおいてはこのケプラーの星型8面体はいわば人間の意識の発生のための原器のようなものに相当している。ヌースソロジー曼荼羅における「中台八葉院」と言っていいものだ。
元止揚空間はヌーソロジーの文脈では4段階に地層化されていて、以下のようにカテゴライズされている。
第1階層 ψ1~ψ2 一つのモノの内部性を規定する球空間(物体)の相互反転性
第2階層 ψ3~ψ4 一つのモノの外部性(3次元座標)を規定する球空間の相互反転性
第3階層 ψ5~ψ6 一人の観測者の周囲に広がる球空間(局所時空座標)の相互反転性
第4階層 ψ7~ψ8 無数の観測者の周囲に広がる球空間(時空全体)の相互反転性
ヌーソロジーの文脈ではこれら4つの空間の地層化の骨格を提供しているのがケプラーの星型八面体なのだが、この形象がその内接、外接の反復によって生み出す空間の階層性は同時に磁場、電場、クォーク(u,d)、核子(n,p)といった物理学でいう初期宇宙に生み出されたとされる物質の基礎とも深い関係を持っているのではないかと予想している。
ケプラーの星型8面体自体は上に挙げた写真のように正8面体とそれに外接する正6面体を基本に構造化されているが、それぞれの多面体に外接する球体が第3~4階層であるψ5~ψ6とψ7~ψ8の幾何学的表現になっている。この二つの球体に加えて、これら正6面体と正8面体の内接・外接関係を中心に向けて多重に辿って行くと、この中には破線で示したような4階層の正6面体と正8面体のセットが内包されていることが見えてくる。これら4階層の球空間の構造がそのまま、上述した元止揚空間の4つの階層に相当していると考えてもらえばよい。
ヌーソロジーが用いている次元観察子が意味する次元とはこの図で示されている同心球の多重性で象られている空間の差異の系列のことを指す。つまり、モノの内部の空間とモノの外部の空間は次元が違うし、モノ一つから広がる空間と観測者一人から広がる空間も次元が違う。ここで言っている「次元」とは単なる点、線、面といったユークリッド的な次元概念ではなく、空間の3次元性自体がその内部に含み持っている本性上の差異の系列として考えるといい。
現在の人間の空間認識ではこうした空間に内包された差異が全く考慮されておらず、一括してすべてを4次元時空上で同一化させて見ている。例えば、モノの運動も、観測者の運動も、時空上の単なる物体の運動という観点で一括りにされて把握されているということだ。空間の差異が見えてくればそれらは全く違う性格を持つ運動であることがすぐに分かってくる。客観的な時空上に出現しているモノの知覚を支えている観念は、この図で言えば、ψ8(客観時空)とψ1(主観的モノ)の組み合わせによって構成された「アプリオリの幾何学」から僕らの認識に提供されているものにすぎない。
この元止揚空間の構成において、最も基本となる形象は何と言っても正4面体だろう。上に挙げた図を見ても分かるように、正6面体も正8面体も双対の正4面体による相互の交差によって構成されている。ヌーソロジーにおいては正8面体は3次元性のイデアであり、正6面体は4次元性のイデアである。つまり、正8面体の3本の立体対角線を3次元性(x,y,z)の座標軸と見なし、正6面体の立体対角線はそのまま4次元性(x,y,z,w)の座標軸と見なすのだ。そして、これらの空間はすべて「見る-見られる」という関係の中で相互反転した対を持っており、すべて二重化されている。この「見る-見られる」という区別は空間の本性を思考していくためには極めて重要な視座である。通常の僕らの空間認識では、見ることが生起している空間(「人間の外面」と呼ぶ)と見られることが生起している空間(「人間の内面」と呼ぶ)の区別がうまくできていない。認識にはこの両者が不可欠なのだが、一般に前者の空間は無意識の中に沈み込み、後者の空間だけが意識の表面に浮上してきている。
見ることにおいてはその視線は4次元空間上のW軸として働いているが、見られることにおいてはこの4次元の軸は反転させられ、そのままミンコフスキー空間、すなわち4次元時空における時間軸(=ict)として働きを変えられている(下図2参照)。
これは哲学的には主体の位置の把握の転倒を意味するものだ。これによって主体は世界の中に投げ込まれる。本来、主体は見ることそのものの只中に位置しているにもかかわらず、見られることによって、あたかも対象の手前に自分がいるかのような錯覚を与えられている。その錯覚によって主体は対象との間に距離概念を措定し、その概念力が同時に持続としての4次元を物理的時間へと変質させてしまっているということだ。収縮としての精神が弛緩としての延長へと変換させられていると言い換えてもいい。一方、本来の主体の場である見ることが生起している空間の方はその奥行きをプランクスケールレベルにまで収縮させており、この元止揚空間において構成されているケプラーの星型8面体をそのままモノ一個を規定する球空間(ψ1~ψ2領域)へと射影する仕組みになっている(下図参照)。つまり、第4階層のψ7~ψ8は既存の幾何学では4次元球面S^4の相互反転性を意味しているのだが、それはそのまま4次元の射影ルート(反転した光速度)によって凝縮化させられ、ψ1~ψ2レベルへと射影されてくるということだ。これによって次元観察子ψ7~ψ8は同じく次元観察子のψ1~ψ2に重畳させられて出現してくるような仕組みを持たされているということになる。ヌーソロジーの文脈の中では、こうした見られる空間の中でしか空間を意識化できない僕らの認識においては、このψ7〜ψ8構造は原子核における陽子と中性子となって観察されることになる(下図3参照)。
このケプラーの星型8面体はスピリチュアルな世界ではマカバと呼ばれている。これは言うまでもなく、ユダヤの古い神秘主義であるメルカバー神秘主義から借用されたものだ。メルカバーは神が宇宙を創造していくときに使用した道具のようなもので、旧約の中でエゼキエルが幻視した「神の乗り物」として出てくる。その本質はヌーソロジー的に言えば、4次元空間の双対性をベースに織り込まれて行く永遠の我と汝の魂の結び目にあると考えている。僕自身は、そろそろ人間もこの戦車に乗り込む時期が迫ってきていると勝手に思っているのだけど、残念ながら、この戦車の車輪は双対なだけに一人で回そうとしても微動だにしない。。。誰かもう一人反対側で回して欲しいよ、ほんと(笑)。
ってなわけで、今回のワークショップでも熱くヌーソロジーが持った空間イメージについて吠えまくったのでありました。
1月 28 2011
『ドゥルーズと創造の哲学』
『ドゥルーズと創造の哲学』
久々に衝撃的な本に出会った。全体で400ページを超える著作なのだが、最初から最後まで、それこそページをめくるごとにヘビー級並みのパンチを喰らい続け、完全に持っていかれてしまった。今でもまだ足下がふらついている。こんな衝撃は『アンチ・オイディプス』以来10年ぶりのことだ。一体何がそんなに衝撃的だったのか――一言でいえば、僕が常日頃感じとっていたヌーソロジーとドゥルーズ哲学に共通して流れる通奏低音をこれでもかというほど綿密かつ精緻に言語化してくれたこと。これに尽きる。
ドゥルーズ哲学はガタリとのコラボによって紡がれた語彙群(器官なき身体、リゾーム、アレンジメント、脱-領土化、内在平面等)が持ったそのPOPな口当たりの良さも手伝って、ボストモダンの思想家たちに様々な文化境界を横断する思考のツールとして使われてきた。ドゥルーズ自身も後期は自らのイマージュ論をもとに絵画や映画などの作品分析をやっているので、文化批評にドゥルーズを参照することはそれなりに有意義な作業であるとは思う。だけど、僕はこういったポストモダンの識者たちのドゥルーズ論に正直あまりピンとこなかった。というのも、この手の議論はドゥルーズ哲学のごく表層的な水準にすぎず、ドゥルーズ哲学がその根底に持った深い射程を何一つ理解していない作業のように思えていたからだ。
ドゥルーズが哲学史家として追い続けたメンツ(ヒューム、ニーチェ、ベルクソン、スピノザ、ライプニッツ等)を見れば分かるように、ドゥルーズはある一定の照準を持って確信犯的に一つの原理的な水準を保ちながら思考しているように僕には思える。その原理的水準はドゥルーズの圧倒的な知識量とその晦渋かつ華麗な言い回しによって見えにくくはなってはいるものの、僕にとっては古代より綿々と受け継がれてきたグノーシス的知以外の何ものでもない。もちろん、多くの研究者たちはそのことを百も承知しているのかもしれない。しかし、ドゥルーズ哲学が今の社会で学問として成立するためにはそこに触れるのはタブーなのだろう。そうしたグノーシス者ドゥルーズの横顔はつねに隠蔽され続け、浅薄な化粧を施されたドゥルーズだけが、単なる知的なファッションとして現実的世界(表象-再現前化)の水準の中で議論され続けてきた。しかし、ホルワードはこの本でドゥルーズ哲学が持ったまさにグノーシス(霊知)としての本性をいとも鮮やかに暴露している。それもその方向性を徹底的に肯定する意味において。何とスキャンダラスな本であることか。この本は、その意味で、まさに従来のドゥルーズ研究者たち、いや既存の哲学の在り方全体への宣戦布告と言ってもいいような内容なのである。幾つか引用してみよう。
「ドゥルーズの作品群において真に問われていることは、ある種の増進された被造物的な可動性や、現働的相互作用のより柔軟で稔りある諸様態を可能にする一連の技法ではない。そうではなく、問題は、あらゆる個別の被造物がみずからの溶解にその方向性を再転換することを、贖いとして履行することである。自然や歴史または世界の哲学者、あらゆる意味での「肉の唯物論者」であるよりはむしろ、ドゥルーズは精神(霊)的な、贖いの、あるいは減算の思想家、脱-身(物)体化と脱-物質化の機構に取り憑かれた思想家として読むことが最もふさわしい。ドゥルーズ哲学を導くのは、この世界の外へと導いていく無数の逃走線である。ただしそれはこの世以外の別の世界へと導いていく線ではなく、脱-世界の線である。」(P.15)
「現働的なものの反転において、またそれを通してこそ、われわれは潜在的なもの、強度化され、変形され、救済または転回された潜在的なもの、その十全に創造的なポテンシャルを復活させた潜在的なものへと回帰する。」(P.148)
これらたった二つの引用からも分かるように、ホルワードは存在そのものの反転を企図したドゥルーズの思考の核心を見事に言い当てている。ヌーソロジーもまた同じ射程を持つ反転の形而上学であり、この「反転」という鍵概念のもとに人間という存在を律動させている宇宙的運動の機構をその根底から引っくり返すことを目標にしている。OCOT情報が伝えてきた人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへという指標はまさにドゥルーズ哲学が訴えてきた一連の哲学的思弁をそのまま知覚-表象可能なものとして再構築していくことを意味しているのだ。ドゥルーズ哲学において知覚不可能なもの、表象化不可能なものとされた理念の構造を新しい知覚形式、思考形式のもとに、超感覚的知覚、超感覚的表象として空間に表現していくこと。これがヌーソロジーにとっての創造行為であり、ここにドゥルーズ哲学と共鳴する通奏低音がけたたましく鳴り響いている。
レクチャーに何度出てもヌーソロジーが一体何をやりたいのか分からないと訝しがる人たちがいる。そういう人は是非、この本を読んで欲しい。哲学的な知識がある程度ないとちょっと読みづらい本であることは確かだが、ヌーソロジーがいわゆるニューエイジ的な自分探しの旅や、さらには政治的、社会的な出来事にほとんどコミットしない理由を少しは理解していただけるかもしれない。あとヘルメス知やカバラ、シュタイナーなど神秘学系の知識に精通している人にもオススメだ。一般に神秘学系の人は哲学を言語に偏りすぎた頭でっかちの学問として毛嫌いする傾向があるが、感覚的なものと思考的なものの一致がない限りヘルマフロディートスの生成は現実のものとはならないとする錬金術の戒めを善しとするならば、超越論的に神秘学的知を再構成していくことは、真のオカルティストとしては必要不可欠な作業ではないかと思う。是非とも、この本をきっかけに思考を最重要視するドゥルーズという哲学者の霊知へのアプローチの仕方を知って欲しい。
ヌーソロジーを長年追いかけている人には、この本に頻繁に登場するドゥルーズ哲学を支える〈現働化-潜在化〉という二つの柱を下に挙げたようなヌース用語の対応で読むといい。おそらくホルワードが解読したドゥルーズ像をヌーソロジーの思考を媒介としてスラスラと理解できるし、また、真のグノーシス者、真のキリスト者としてのドゥルーズに出会えるのではないかと思う。
現動化――反定質(人間の意識の内面——偶数系先手の次元観察子の発展)
潜在化――反性質(人間の意識の外面——奇数系後手の次元観察子の発展)
現動的なものの反転――顕在化、または定質の発振(奇数系先手の次元観察子の発展)
ドゥルーズ哲学の先に見えてくるもの。これを巡ってこれからのヌーソロジーは展開していくことになる。ありがとうホルワードさん(泣)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, イマージュ, カバラ, グノーシス, スピノザ, ドゥルーズ, ニーチェ, ヌース用語, ヒューム, ベルクソン, 人間型ゲシュタルト, 次元観察子, 神秘学