8月 12 2013
高次元世界とは空間の深みのことである
幼少期にはまだ生き生きとしていた奥行き。この生ける奥行きはいつ忘却されたのだろう--それは内在的な視線の遷移という側面から言えば、視線が前方から左右方向へと90度回転してしまったことがその契機となっている。
事実、左右からの視線の介入は奥行きを幅へと偽装させ、奥行きの中に生きる主体の本来を無意識の中に沈めてしまった。
無意識の流れからインストールされてくるこの左右からの視線とはもちろん経験的他者のそれとは違うものだ。誰とも特定することのできない抽象的他者、いわゆる大文字の他者の視線である。
日常生活の中でわたしとあなたが向かい合っているとしよう。その様子をわたしたちはすぐにイメージすることができる。このイメージを持つこと自体が、すでにわたしの中に大文字の他者の視線が宿っているということを意味する。
わたしの中に侵入した何者かが、向かい合うわたしとあなたを横から見ているのだ。この視線は向かい合うあなたとわたしの前を真っすぐに横切っているのが分かる。それはわたしにも、あなたにも、単なる一本の直線にしか見えない。
しかし、こうした線にも神霊が宿っていることをわたしたちは直観しないといけない。目の前の水平線とは大文字の他者にとっての奥行きに相当する線であり、奥行きの本来をi(虚軸)とすれば、この線は自他の奥行きを併せ持ったi×i=-1であり、時間の起源となっている線だと思われる。
奥行きの本来においては、わたしは世界と一体である。しかし、こうした左右からの視線は「わたし」を世界とを引き離し、「わたし」を世界の部分へと切り離す。そこでは多の中の一としてのわたしが誕生させられるのだ。
主体は自分の存在の中心にこうした大文字の他者を迎え入れることによって初めて自分を自分として見ることができるようになる。自分が自身の他者となって、全体の一から個としての一を眺めるシステムが整うことによって自我の基盤が作られるのだ。
その意味でも左右からの視線の介入は自我意識の成り立ちに欠くことのできない条件となっている。真横に走る水平線。。。ラカンのいうところの「一の線(トレ・ユネール)」。OCOT情報はこの線のことを「位置の等換」と呼ぶ。ドゥルーズ=ガタリ的に言えばヌーメン(神霊)の働きである。
この「位置の等換」の線が常に目の前を水平に横切るものだと固定的に考えてはいけない。それがわたしたちの本来の奥行きに重なって機能することもある。単純な話、わたしが第三者的に立ち振る舞うとき、その視線は常にこの「位置の等換」の線上をなぞっている。
あなたが二人の仲を取り持ったり、仲裁に入ったりするときはもちろんのこと、奥行き方向に経過する時間を見ているのであれば、そのときあなたは常にこの「位置の等換」の線上の視線で世界と接しているということになる。
このように考えただけでも、奥行きと幅の関係は僕らが普通に想像するよりもずっとずっと深い。。単なる時空という枠組みでモノを見るのではなく、空間のこの深みの中に僕らは深く深く潜行していかなくてはならない。高次元世界とはこの深みのことを指すのである。
12月 27 2013
ヌーソロジーがやりたいこと
ヌーソロジーは似非科学であり、オカルトだ。という人がよくいる。こうした人はヌーソロジーの出自(チャネリング情報)ばかりに目がいっていて、何をやろうとしているのかを見てくれない。個人的にはちょっと淋しい。
ヌーソロジーはもちろん科学ではない。と言ってオカルトでもない。科学というのは基本的に世界の内部に存在する物質を対象とする経験科学だし、一般的なオカルトは神秘主義的な伝統をもとに見えない霊的な世界をも含めた世界の構造を明らかにしようとする形而上学だ。
ちょっと難しい言い方になるけど、そうした視点からすれば、ヌーソロジーはカント哲学以降の大陸系の哲学の系譜を原点にしている似非哲学という言い方もできる。つまり「超越論的」視点をまずは重要視しているということ。でもこの「超越論的」というのが一般にはなかなか馴染みがない。だから、スピ系の人などには「分かりにくい」「難解だ」という言い方をされてしまう。
「超越論的」というのは「経験論的」のいわば反対語のようなもので、僕ら人間の経験が成り立つ条件について問うということを意味している。つまりは世界とは何かを経験から問うていくのではなく、人間の経験がどのように条件づけられているのか、人間の歴史以前から存在すると思われるそのメタな構造について考える、ということ。
哲学の世界は現象学のフッサールに始まって、ハイデガー、そしてフロイトやラカンの精神分析、さらにはレヴィ・ストロースなんかを通過して、構造主義、引いてはポスト構造主義と呼ばれるところまで思考を進めてきたのだけど、やはり、経験が先か、超越論的なものが先かでもめているようなところがある。
早い話、抽象的なことはもういいよ、僕らの現実に戻ろう。現実がうまくいかないから抽象的なことに走るんだ——とかそういった議論はあちこちで見られる。経験論的な次元と超越論的な次元がグルグル循環してにっちもさっちもいかなくなっているといったような状態。それが今の思想の現状だと思う。
僕がドゥルーズをよく引き合いに出すのは、ドゥルーズがこの循環の外部に出ることをいつも思考していたから。僕が「経験」したシリウス情報の原点というのは「πの循環を切れ」という言葉から始まっている。実はこの「πの循環」というのが上に書いた「経験論的な次元と超越論的な次元の間のグルグル循環」と同じものだと考えてる。ドゥルーズはこの循環路のことを「最小回路」って呼んでいるけど。。で、このグルグル回路の主が僕らの「自我の本性」。
その意味で言えば、科学もオカルトもこのグルグル回路の中で回っている自我の産物と言っていいように思う。哲学もまたここから出れているようにはとても思えない。なんで出れないのかというと、皆、好き勝手に自分の立場からのものの見方を主張していて、互いに歩み寄ろうとしないから。また歩み寄れるものとも思っていない。
前々から言ってるけど、この時代、科学もオカルトも哲学も、実はみんな同じ方向に向かっていると僕は感じている。それらが持っている根底の衝動はみな同じ——ここから出たい——って。でも、仲が悪い。なぜって、結局のところみんな自分の方法論が正しいと思っているから。自我だから仕方ないんだけど。。
哲学は素粒子が超越論的構造なんて発想をほとんど持っていないし、科学も素粒子が無意識の構造なんて想像だにしていない。オカルトは歴史的な神霊の言霊に洗脳されていて、科学も哲学もオレタチよりレベルが低いって勝手に思ってる。なんで皆、仲良くしないのかっていつも思っちゃうんだよね。だから、これら三者の間を調停することのできる新しい思考方法がないものかをずっと考えている。OCOT情報は僕にとってはそのヒントとなるエッセンスの塊のようなもの。
始めに話を戻そう。
ヌーソロジーは科学でもなければ、オカルトでもない(以前、真正なオカルトと表現したこちがあるけど、それはオカルトというものが本来「隠されたもの」という意味だから。「隠されたもの」は未だ僕らの歴史には登場してきてはいない!!)。そしてたぶん哲学でもない。それは今までになかったものだと思う。だからまだまだヨチヨチ歩きの幼児のようなもの。あまりイジメないようにしよう。幼児虐待に当たる(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, ドゥルーズ, ラカン