12月 1 2017
新しい永遠——the green roses
素粒子を象る円環は常に直線的時間を巻き込んでいる。素粒子の内部に巻き込まれた時間はその内部で前後関係を失い、渾然一体となって精神の中に溶け込んでいる。私たちの記憶があられもない乱交状態にあるのもそのためだ。
一方、私たちはその記憶を直線的時間上にマッピングすることを好み、むしろ、この序列を時間だと思い込んでいる。記憶はそこで記録や歴史へと変質させられる。記憶はプライベートなものだが、記録や歴史はパブリックなものだ。つまり、時間にはソロの時間とデュエットの時間があるということを再確認しておかなくてはならない。パラノ時間とスキゾ時間とでも呼ぼうか——。
ベルクソンの持続の時間論はとても魅惑的なものだった。しかし、このソロとデュエット、持続と直線的、二つの時間の質の関係が今ひとつクリアじゃなかった。二つの時間の類型の間にある差異と反復。ドゥルーズはここに深く切り込み、独自の時間論を練り上げた。
そこから、ドゥルーズならではの永遠回帰の論理が仕立てあげられる。その内容を一言で言うなら、時間はやがてその直線的な展開を停止する、というものだ。
私たちは、今、パブリックな時間にプライベートな時間を従属させている。時間は流れる。それを私が記憶する。といった具合に。
永遠回帰はこの関係を逆転させる。つまり、繰り広げられた時間をただ円環の中に巻き込むのではなく、今度は私自身が円環となって、時間を外へと繰り広げ始めるのだ。
こうした時間の変換運動は、実は素粒子たちが行っていることでもある。私たちが素粒子自身になるとき、時間は、その直線を展開するの止め、自己自身に巻きつき丸まる。そこに現れるのが円形の精神、すなわち「霊魂」だと考えるといい。
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世界の裏側には私たちにはまだ全く未知の広大な大地がある。イデア界、シャンバラ、常寂光土、楽園…または潜在的なもの。呼び方は人それぞれだが、その場所を伝統的な宗教や哲学とは全く違った思考方法で開かなくてはいけないと思った。それが開かないのはただただ概念の欠如によるもの。そう感じた。
人は最初、見ることと話すことで交流した。しかし、それがいつの間にか、読むことと書くことに変わった。人は盲目になった。宗教も哲学も読むことと書くことで広がっていった。だから、広大な大地は見えなくなり、それについて書かれた書物と、それを読んだ情報通たちだけが増えていった。
しかし、これは必要なプロセスだった。まもなく人は盲目ではなくなるだろう。読むことと書くことが、新しく、見るべきものと話すべきものを用意してくるだろうから。それは、かつてあったものでなく、新しく作り出されるべきもの。帰還するのではなく、前へと進むこと。前へと。
永遠は新しい永遠の訪れを待っている。
3月 5 2018
高次元知性体について—新しい超古代へ
高次元知性は存在する。そして、それはあらゆる人の中に眠っている。何度も言ってることだが、この高次元知性を発現させるためには空間の質を延長から持続に、空間の根拠を幅支配から奥行き支配に変えていくことが必要だ。それによって今まで時間と空間と呼んでいた超越的なものが、超越論的に思考されるようになり、外的時空は内的協働の場へと変貌していく。
持続空間なのだから、ここに生まれる共同体は生者のみならず死者をも含む。持続的生命としての死者が復活するのだ。生死の境界が外されると言ってもいい。よって、今までのように生権力が死者たちを自分の都合で利用することもなくなる。死んでいった英霊たちのために云々、などといった驕り高ぶった文言はもはやギャグにしか聞こえなくなるからだ。
もちろん、現実主義者には世迷言にしか聞こえないだろう。しかし、残念ながら、それでも高次元知性は存在するのだ。高次元知性は感性的なものに従属していた思考から逃れ、感性自身を能動化させていくために思考する。つまり、感覚自体を変化させるための思考というものが存在している。持続空間における思考は必然的にそのような思考になると考えよう。
人間の理性の極みの中に出現してきた素粒子とは、その高次元知性から差し出された道標のようなものだ。だから、感性に従属した従来の思考では素粒子のミステリーは解けない。時間と空間を感性の直観形式と見なす理性では問題の立て方自体が間違っているということになるだろう。わたしたちは、そこに、「存在とは別の仕方で思考せよ!!」という督励を読み取らなければならない。
持続を直観の形式へと変えようとしたベルクソンはおそらく正しい。今こそ空間の質的転換が必要なのだ。自分の内部で永遠に続いている生命を奥行きの名のもとに空間そのものとして見なすこと。そして、そこから世界を再構成していく異次元の思考を立ち上げること。それをすでに行ったものが高次元知性だと考えるといい。だから、世界はこのように在り、わたしがいるのだ——。
高次元知性体は目に見える身体を持たない。高次は持続空間であり、非局所的なものだから、これは当然のことと言える。私たちが日頃親しんでいる物質的身体は、その高次の非局所の方向性をフィックスするために結晶化させられたものだと考えよう。だからこそ、身体は局所的存在でありながらも空間的移動を可能とし、局所と非局所の結接点として生きているのだ。
このような考え方をしていると、延長空間では身体は動いているが、持続空間では身体は動いていないという二重の身体空間が自然に感覚に浮上してくる——いわゆる「バイスペイシャル」だ。現在のわたしたちにまるまる欠落しているのは、この後者の感覚の方である。実際にそれが存在しなければ、当の自分さえ消えてしまうにもかかわらず、この不動の空間の方が思考に全く上がっていない。
持続を浸透させたそうした不動空間がそれぞれの個体の位置感覚(「いる」感覚)を担保している。そして、そのような不動性が無数より集まった高次の絶対的空間が存在しているからこそ、それぞれの精神は己自身の運動を可能とし、協働性の名の下に生命の潮流を作り上げていくのである。そこに未だ自覚されていない「わたしとあなた」という関係の本性があり、高次元知性体が作り出す高次社会の意味があるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: バイスペイシャル, ベルクソン, 素粒子