10月 13 2005
φの貨幣
楽天によるTBSの株式買収が世間を騒がせている。ライブドアとフジテレビの時とはパターンは違うが、TBS側の困惑は隠せない。昨日の会見でも、もともと自分たちの縄張りである放送メディアにどうして新参者の青二才が金にものを言わせて首を突っ込んでくるんだ、というムカつきの表情が見て取れた。
新参者は熱意を持って言う。あなたがたの体質はもう古いのですよ。わたしと組めば、もっと儲けられるのだから協力しませんか。しかし、旧体制側はそう簡単には首をタテに振ることはできない。もちろん、そこには彼らの自我防衛が働いているだろうし、放送メディアを構築してきた自負とそれを支えてきた社内史への敬意もあるだろう。しかし、彼らのムカつきの本質はもっとシンプルな感情にあるのではないかと思う。記録された歴史のウラには必ず記録されていない歴史があり、記録された歴史よりも記録されなかった歴史に彼らは価値を感じている。ざっくばらんに言えば、諸先輩と徹夜で討論したこと。同僚たちと飲み屋で夢を語り合ったり、愚痴をこぼし合ったりしたことなどなど、過去のこうした、職場内でのたわいのない日常的な感情のやり取りが、彼らに一つの共同体としてのかけがえのない価値を感じさせているのだ。確かに、そこには金銭には換算できない「聖なる何ものか」がある。しかし、資本の力は、そうした資産表に上がらない、つまり外延量として弾き出すことのできない価値を価値として見なすことはない。たとえ「いっしょうけんめいやりました。」と言っても、「いっしょうけんめい」という想いや行為は消去され、財として何が残ったのかだけが換算されるのだ。資本にとっての価値とは、土地、建物、所有株式、銀行預金、他の資材全般等に付けれられた価格なのだから。こうして、資本の運動の名のもとに「聖なる何ものか」は跡形もなく棄却されて行く。
さて、問題は、こうした資本の力が持ったすべてを一様の数字ではじき出す欲望と、人間が持った情動的な欲望との間に横たわっている相容れないギャップである。この先資本主義がより発展して行けば、このギャップはますます大きくなっていくだろう。これはヌース的に言えば、オリオン(象徴界)とプレアデス(想像界)との間に生まれているギャップにひとしい。いや、より正確に言えば、そのギャップこそが僕らに「心の価値」とか「共同体の価値」とかいったものを生起させているものなのだ。そう、このギャップとはほかでもないシリウス(現実界)のことである。貨幣の力が猛威を振るえば振るうほど、心の中に何か大事なものを失っていく感覚がわき起こり、僕らは真の価値の復活を必要以上に標榜するようになる。しかし、それは容易いことなのだ。単に不在に対して不在を泣き叫ぶだけのことなのだから。オリオンとプレアデスの関係はこうした転倒した愛のかたちのもとに今やSM的な関係にあると考えていい。貨幣は常に勃起し、それによって喪失させられていく価値を嘆くことによって人間は濡れる。全くあほらしい。これでは存在のオナニーじゃないか。確かに、サディストとマゾヒストが出会って恋に落ちれば、それなりの快と幸福はあるだろう。これはこれで一つのバランスの在り方には違いはないのだが、いつまでもSM的な関係で愛し合っていては体が持たない。真の愛を達成するためにはこうした性愛ではなく、別のスタイルの性愛を持たねばならない。
神は真の能動者である。その意味で言えば、人間は無知な受動者だ。神は自らが作り上げた世界を人間に純粋贈与として捧げたはずなのだが、いつの間にか人間に信仰という見返りを要求するようになってしまった。神からの一方的な愛の告白と、愛されるがままで、愛することを能動として返せない人間の愛。しかし、しかしだ。ときに愛される者が突如として愛する者に変貌することがある。そのとき受動的なものは能動的なものに変身するのだ。ラカンはこれを「奇跡」と呼び、そこにあのナゾの記号「φ(ファイ/黄金比)」を置いた。一体どうして愛される者が愛する者へと変容できるのか。それは果実に手を伸ばそうとしたとき、果実側からもまた手が出てわたしをつかもうとするようなものだと——。
奇跡が必要である。地上を這い回る貨幣ではなく、空へと舞い上がるφの貨幣の登場が必要である。そのとき、今まで女とされた大地は男になり、男とされた天空は女になるだろう。女が空からやってくる日は近い。あのゲブとヌートの交わりが始まるのだ。
12月 10 2005
汝、我、物
さて、いつまでも昔の思い出に浸ってるわけにはいかない。今年一杯に新しい本の企画書をあげなくてはならないからだ。曲作りのときもそうだったが、わたしは本を書くときはまず最初に全体のグランドデザインをじっくりと練ることにしている。もちろん、書き始めてから,途中、その構成プランが変更を余儀なくされることもあるのだが、いずれにせよ、構成という問題はわたしの表現活動にとっては生命線のようなものである。
——新しい本では何をやるべきか。焦点はすでに一つに絞られている。現時点でのヌース理論の体系をできるだけ簡潔に読者に伝えること。これである。ヌース理論の根本は霊的構造を高次元の空間構造として説明することにあるので、当然のことながら高次元空間なるものを2次元という紙媒体を通じて表現しなければならないわけだから、かなり大変である。サイト上でいろいろと試行してきてみたが、やはりまだまだ強度が足りない。強度とは感覚に訴えるものであるから、自らの感覚が体験していなければその伝達は絶対に不可能だ。
ヌース理論は、「理論」と名のつく範囲では、確かに宇宙構造を観照し対象として俯瞰するものだが、頭で「あっ、なるほど、ペンターブ・システムとして拡張していく空間に秘められた対称性の構造が、〈見る〉というモナドとしての基底空間に折り畳まれていることによって、この物質世界が現象化しているわけね。」と頭だけで納得したところで、その真の醍醐味を味わうことはできない。何より重要なことは、理論が展開している無意識構造の内部そのもの中に自らの身体を投げ入れることができるかどうかがカギになる。無意識構造の中に広がる風景を読者に文字度通り一種の身体感覚として「腑に落ち」させなければいけないわけだ。だから、数学や物理の知識は必ずしも必要ではない。宇宙創造の行為においては、ロゴス(論理形式)はあくまでも予習の役割しか持たないのであって、本質は、そうした論理のルーツと目されるイデアを自らの身体として再現させることにあるからだ。このイデア形成の母胎となるものが「汝と我」という、いわゆる「対化」の関係である。
哲学でこの「汝と我」の実存的関係に深く言及していくものは極めて少ない。わたしが知る限りレヴィナスとブーバーぐらいのものである。ヌース理論もまた彼らの哲学同様、「汝と我」がいなければ何も始まらない。知覚もない。概念もない、一切の物理現象も存在しない。もちろん数も幾何学も存在しない。「我と汝」とは、そのような「根源的2なるもの=線なるもの=磁場なるもの」として解釈されなければならないのだ。それは、いわば神にとっての「二つ」と言っていい。
天上と地上とそれら両者を媒介する中間領域。ヌースではこの三者関係をオリオン、プレアデス、シリウスと呼んでいるが、何のことはない、これらは、汝、我、物のことに他ならない。われわれが神的なものへと変身を遂げるためには、まずは「我」を獲得し、そこから「物」自体へと至り、そこを突抜け彼岸たる「汝」の世界へと入ることが必要である。秘教的なもののすべては、この3段階のプロセスの中に集約されている。そのルートを一つの身体感覚として明確に読者に追体験させることができれば、次回の執筆は成功と言えるだろう。しつこいかもしれないが、あなたとわたしともの。。この三つの観念としての支点からすべての創造が始まるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: オリオン, プレアデス, モナド, レヴィナス, ロゴス