3月 24 2023
ヌーソロジーの基本的な空間認識
「いるもの」と「あるもの」の差異は「前」を意識するか、「手前」を意識するかの違いでもある。「手前」を意識すれば、そこには自分の顔の存在が想像される。しかし、顔は見えない。顔は想像されるだけだ。これは、「あるもの」の世界がすべて「いるもの」の世界の鏡像になっているということを意味している。
この鏡像がどこからやってくるのかと言えば、それは「他者から」としか言いようがない。というのも、「いるもの」は他者の眼差しを通して自分自身を反射させ、自分の顔を、そして、「あるもの」の世界全体を想像的に形成しているからだ。4次元から見れば、この反射が時間である。本来「いるもの」自身は時間を持たず、持続として生きている。
この空間マップからすぐに直感できるのは、わたしとあなたでは「いる」と「ある」の世界が互いにひっくり返っているということだ。つまり、わたしとあなたは同じ世界にはいない。4次元認識を深めていくためには、このことにまずは気づかないといけない。
時間は時間だけでは認識できない。わたしたちが時間を流れとして感じるとき、そこには無意識としての記憶が働いている。その役割を担っているのが「いるもの」を支えている持続だと考えよう。それは4次元空間のことであり、マップが示すように「前」としての”奥行き”に息づいている。
そう考えれば、前と手前の間で持続と時間の間を巡る反復が起こっていることがすぐにイメージできてくるのではないだろうか。目の前に新しい現在のリンゴの像を次々と生産しては、その瞬間像を持続の中へと送り込んでいく意識の反復運動、もっと言うなら、回転運動が自己自身の存在のあり方としてイメージされてくるはずだ。
まずは、このイメージトレーニングをしつこくやることが重要だ。切り抜き動画で「人間とは時間である」と言ったことの意味が少しは伝わってくるのではないかと思う。この感覚が生まれてくれば、ヌーソロジーが脱-表象化の世界と呼んでいる主客一致の世界も少しづつ見えてくる。
というのも、この時間の認識のカタチ自体が「なるもの」の原初でもある素粒子でもあるからだ。物の内部の玄関がここにある。空間に穿たれた存在への穴だ。
※「存在論的スイングバイ」のところの図と、「ある」と「いる」の空間マップを重ね合わせてイメージを膨らませていただければと思います。
5月 1 2023
ただただ、射影の導きに従って—
見ているものと見られているものの位置を二つに分けたがる。これが人間の意識の習性だ。そこに幅を置きたがる・・・何度も言ってるように、これは他者視線で世界を見ることが無意識の中で当たり前になっていることによって、起こっていることだ。もう、これを止めようと言ってるのがヌーソロジーだ。
考えてみれば世に出回っている知識のほとんどが、この視線で世界を見たところで成り立っている。この知識網は人間を人間にがんじがらめに縛り付けている。この窮屈さから出るためには、自分自身の視線に合わせて空間を再構成し、別の知識網を作り上げないといけない。そういう時期なのよ。ほんと。
自分自身の視線に合わせて空間を再構成するためには、視線が射影であることを知らないといけない。見ることが起きている現場は数学的には射影空間になっていて、それは時空ではない。ヌーソロジーが提唱している空間の「幅から奥行きへの質的転換」もそのことを意味している。
シュタイナー的に言えば、この射影空間がエーテル空間であり、エーテル体の活動場なのだ。時空から見れば、この射影空間はミクロに縮んでいる。巨大なマクロの広がりもそれを視線の中に埋めてしまうならミクロとなんら変わりない。
つまり、幅で見ると巨大に思えるこの時空全体も、実は人間の視線を通じてそのままミクロに射映され、そのまま縮んでる。この宇宙はそういう仕組みになっている。そして、物理学者たちはこの縮んだ宇宙が生み出しているシステムのことを素粒子と呼んでいる。
奥行き、視線、眼差し・・・。ここに息づいているのが、持続としての存在と考えていいように思う。エーテル空間なのだから、それは生命と言い換えてもいいのではないか。幅世界の中で時間と呼ばれていたものが、持続へと反転するところに真の生命の誕生がある。
時空に生きる人間の意識から見れば、このミクロへの射影は死への導線といっていいものだ。人間の意識は幅世界の時間と、奥行き世界の持続との間を右往左往することで意識たりえている。生と死を跨いだところに私たちの生きることの反復がある。まさに生死不二とはこのことだ。
この反復を解かれたときに、文字通り意識は死の界域へと入っていくのだろうが、そこはヌーソロジーの文脈からすれば、素粒子が内的に活動している世界になっている。そこは内側から現象世界を生み出してる存在世界の入り口だ。射影された万物の本性たちがその奥で存在の歌を唄っている。
これは神秘主義的幻想ではない。私たちは知性を通して必ずやその世界へと入っていくことができる。それが私たちが今ここにこうして存在していることの意味でもあるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, 素粒子