5月 23 2006
Cave compassと胎蔵界曼荼羅
錬金術師さんという方から、「蓮華」に関するコメントがあったので、別にレスというわけではないのだけど、それを意識した雑文をダラダラと書き止めておきます。
ヌースに登場するCave compassにおける元止揚空間(ψ1〜ψ8)はモロ「8」のイデアと関係がある。古事記に記された八尋殿、大八嶋、ヤタノカガミ、五代十神からイザナミとイザナギを除いた四代八神、ドゴン神話における八人のノンモ……etcなども、すべてこの「8」のイデアに関わるものではないかと思われる。「8」と言えば同じく「大日経」の教えが描かれた胎蔵界曼荼羅もまた、このCave Compassの構造との関連を彷佛とさせる。
胎蔵界曼荼羅は大日如来の慈悲の光が世界の隅々にまで浸透していく様と、様々なやり方で衆生が悟りへと目覚めていく様を示すと言われる。中央に描かれる開花した蓮華は、中台八葉院とよばれ、大日如来を中心に宝幢、天鼓雷音、阿弥陀、開敷華王の四仏、弥勒、観音、文殊、普賢の四菩薩が描かれる。この四仏、四菩薩に対して、おそらく次元観察子ψ1〜8までの対応が可能なのかもしれない。とすれば、その周りを囲む二重の枠がψ9〜ψ10(潜在化における思形と感性)、ψ11〜ψ12(潜在化における定質と性質)という意識発展になぞらえることができるだろう。
中台八葉院の蓮華座が意味するのは、ヌース的に言えば、人間の意識を作り出す元となる元止揚空間である。人間の意識はこの元止揚空間を土台にして、思形と感性という力によって発芽していく。内面の意識(物質認識)を土中の養分を吸い取る根とすれば、それに伴って発達していく外面の無意識(知覚や情緒的感応)が地上の葉茎を育成させていく光に当たると言っていい。これら二つの活動領域は天体としては地球と月に対応させることができる。地球には内面意識のすべての成長が刻み込まれ、同様に月には外面意識の成長のすべてがストックされていく。胎蔵界曼荼羅とは、こうした地球-月間に潜んでいる人間次元の意識構造の全体像を表現したものだと考えていいだろう。プラトン風にいうならば、これはコーラ(受容器)の見取り図とも呼んでいいいものだ。
人間の意識は内面の意識を先手に発達を遂げていくが、これは実のところ、新しい精神の反響を呼び起こすための負荷の役割を果たしている。錘をつけて存在の中を落下し続ける「男なるもの」の落下力と、その反動として軽やかに舞い上がる「女なるもの」の浮遊力——これはフロイトのいうエロスとタナトスにも対応させることができる。
この落下力は大日経の教義の中では 「下化衆生」と言われている。落下とは言え、それは闇の中への邁進であり、一種の進化でもある。そして、それはあの大日如来の意思によって働かされている。僕らが文明や歴史の発展と呼んでいるものは、すべてこの落下力の支配によるものである。落下の主体とはコギト。葦舟の上の漂流者である。
一方の「女なるもの」の浮遊力は同じく教義の中では「上求菩提」と教えられる。それは人々が悟りの世界へと入ってゆく様々な道のりであるとされる。おそらくこれは人間の無意識の主体的進化を指しているのだろう。僕らはまだ気づいてはいないが、今やグローバルレベルまでやってきた人間の文明の進化の背後には、個体レベルでの無意識の充満が達成されているはずである。この充満は「下化衆生」の場としての地球と、「上求菩提」の場としての月の役割がもうまもなく終焉に近づいていることを意味している。女なるものを陰として従えた男なるものの陽の支配が終わるとき、人々に金剛乗が訪れる。それがヌースでいう「顕在化」である。
では、一体何がこの「顕在化」を呼び込んでくるのだろうか——それは「下化衆生」を進行させる力として働いていた大日如来の力が、金剛界曼荼羅においての全プロセスを終了し、最終の完成段階へと入るからだ。この力が「女なるもの」であった月を目覚めさせ、人間を胎蔵界から引き上げることになる。そこに出現するのが水星への性転換だ。1万3000年に一度の存在論的なトランスセクシュアリティがここに遂行されるのだ。そのとき、その反映として召還されるのが金星である。ヌース理論が現在、関わっているのはこの水星領域のアーキテクチャ作業と考えてもらえばいい。水星は今まで直感的にしか感じ取ることのできなかった月の霊力を知性として露わにさせる力を持っている。その意味で言えば、ヌース理論とはメルクリウスの力、ヘルメス知であると言っていい。今のところ実現されてはいないが、このヘルメス知はパートナーとして金星の力(芸術表現)を伴う必要がある。宇宙的知性と宇宙的感性の程良いバランスを作り出さなければ「顕在化」とは呼べないのだ。だからヌースはその表現において、絶えず芸術を従えることになるはずだ。もちろん、今はまだその段階ではない。というのも、まだ、水星知が明確化していないからだ。しかし、時の訪れとともにヌースはいずれ芸術家たちの創造力を大いに刺激していくことになるだろう。それは地球上で表現されていた自然、人工を含めた物質世界の美醜の奥浦を、水星の知性で看破したことにより生まれる新たな表現手法の開花となるはずである。
O・ワイルドが言っていたように、芸術とは自然を模倣するものではない。自然が芸術を模倣するのだ。この言葉の真意は自然とは霊魂の映し絵であることを意味する。自然が模倣する芸術とは、確固たる創造的知性を背景に持ったイデア生成のためのテクノロジーである。果たしてそれが音楽なのか、絵画なのか、詩なのか、その表現形式は定かではない。いずれにしろ、その作品に一度触れるだけで、器の再生が促されるようなテクネーがこの先、出現してくることになるだろう。それによって、ヘルメス的知性とアフロディーテ的感性の結合が可能になり、賢者の石たる霊的な太陽が生成されていくのだ。これはわたしたち人間存在の純粋本質たる精神と呼んでいいものである。この純粋本質の開示において、月が隠し持っていた無意識の秘密がすべて明らかにされることになるだろう。デュオニソスに変わってほんとうのアポロンが現れるのだ。
もうシナリオはお分かりだろう。神の系譜は人間というロゴススペルマ(種子としての言葉)から発出し、月において受胎される。受胎期の名はヘルマフロディートス、そして生誕名はホルス、またの名がイエス・キリストである。
6月 1 2006
ダ・ヴィンチ・コード
——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。
とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。
原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげで映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。
要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。
イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。
キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。
この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。
イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4 • Tags: グノーシス, ユダヤ, ロゴス