5月 27 2006
最終兵器C^2
以前、このブログでも「複素2次元空間(C^2 : シーツー)」というタイトルのところで紹介したが、ヌース理論では奥行き方向を虚空間の方向と考える。というのも、奥行き方向は知覚が世界へと降り立ったときに生じる干渉場のようなものであり、3次元の中で人間の現実が息づく唯一の方向性でもあるからだ。その意味で、奥行き方向は左右方向や上下方向とは絶対的な差異を持っている。その差異の方向を実軸(左右や上下)の手前側への90度回転と見立て、虚軸として考える——。筋書きとしては至って簡潔である。実際に、そこには一つの直線が息づいてはいるのだが、その直線は目で見ることはできない。それがゆえに、それは「虚」の次元であると考えてみようということだ。。奥行きを実の1次元として、左右・上下と無理矢理、同一化させて見ている現在の空間認識よりも、心理的には極めて自然な空間解釈と言えるだろう。
この考え方でいけば、モノを中心に自他が向かい合った状態では、二本の虚軸が奥行き方向に重なり合って存在しているということになる。知覚正面に十文字に実の2次元平面が広がり、奥行きに二本の虚軸が重畳する——これがヌースが21世紀の人類に向けて提言するこの存在空間のベーシックな描像だ。時空認識はこのあとに介入してくるC^1(思形-左右方向を虚軸に持つ視座)の働きによって生まれてくる辺境領域の一つにすぎない。(これによって奥行きの虚の二次元は複素共役による実1次元と互いに方向の違う4次元へと分離する。ここでいう複素共役とは当然のことながら、自他間の鏡像原理における鏡映変換のことを意味する。つまり、互いの肉体の間に実次元としての奥行きが埋め込まれるのだ。こうしてユークリッド3次元空間が概念化され、互いの肉体の後方の空間は4次元空間と4次元時空に分かれるのだ。以前、話した「前」と「後ろ」の違いを思い出そう。互いの前を合わせ持ったところが4次元空間で、互いの後ろを合わせ持ったところが4次元時空である。
「われわれが住む宇宙が4次元時空だって?一体、誰に聞いたんだ?アインシュタインか?そんな考え方は20世紀の遺物だ。もう古い。世界の根本は複素2次元空間。この空間はC^2なんだよ。」
そういう会話が世界のあちこちで囁かれ始めるのも、もう時間の問題だろう。僕らが自分たちの眼差しをも対象と見なし始めれば、否が応でも世界は複素2次元空間に見えてくることになるはずだ。シーツー、シーツー。阪神のシーツではないので、間違いのないよう。
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C^2と言えば、第一次世界大戦当時に日本海軍で制式化された揮発性溶剤無煙火薬の名称もまたC2であった。ヌースが一般に先駆けていち早く提唱するこちらのC^2の方の破壊力はその比ではない。宇宙規模だ。C^2兵器の登場によって時空は間違いなく一瞬のうちに吹き飛ぶ。しかし、ご安心めされ。爆音は一切しないし、都市を破壊することもない。もちろん、虫の子一匹、草木一本に至るまで生命体に何ら被害を与えることもない。確かに、C^2爆薬の本質は核力だが、世界の野蛮人どもが所持しているあの巨大な核弾頭のようなチャチなフェイクではないのだ。
核兵器があれほどの破壊力を持つのも、人間の意識がこのC^2からほど遠いところに落ち込んでいるためである。はるか天上のプルトニウム239の空間に思いを馳せよ。強靭なオイディプスの力が存在世界のカベを突き抜けたとき、その圧力から存在回帰を果たすために双子の精神が雄叫びを上げながら引き戻しの力で抗おうとする。それがアルファ線である。何とも皮肉な話じゃないか。宇宙本来の姿を取り戻そうとする回帰力が結果的に人間の世界により一層の不幸をもたらしているのだ。オイディプスの神話そのもののような二重の悪夢。こうした不幸を払拭するためには、オイディプスの夢から人間が醒めるしかない。その覚醒は、現在、物質側に転落している働いている核のエネルギーを精神側そのものへと反転させることによって成し遂げられる。この反転攻勢が来るべき新しい海軍(月の軍隊)が世界に対してしかける「新しい戦争」である。
スタバ、マック、君の六畳一間のアパート、夫婦の寝室、場所はどこだっていい。この空間の至る所にこのC^2爆弾をセットしていくこと。そうすれば現在の核兵器はただのガラクタになるだろう。起動コードは2013。とでもしておくか。。。
(この物語はあくまでもフィクションです。。。)
7月 22 2006
人間の条件
今日も一枚の絵についてヌーシーな戯言を。。。
ルネ・マグリットの「人間の条件」という作品だ。この絵は画家が絵を描くことの基本的なスタンスを的確に表した概念画のようなものである。マグリットの作品は、以前、紹介した「複製禁止」を初めとして、空間に潜む亀裂、断裂をあたかも測量士のようにきっちりと図式化して再現するものが多い。この作品もその典型である。
室内から見た外部の風景。室内と外部の間にはあたかも風景を切り取るように窓が穿たれている。この窓枠に合わせるようにして、キャンバスが象られ、そこに、外部の風景が詳細に模写される。キャンバス上に描かれた風景はあくまでも2次元上に配置された形態や色彩だが、窓の外に広がる風景は三次元的奥行きを持つ延長としての世界である。
この作品のタイトルにあるように、こうした空間の配置関係が「人間の条件」であることは、ヌースをご存知の皆さんはすぐに了解してくれるだろう。人間はあたかも内部と外部のように感じるなにがしかの空間感覚を持っている。外部は客観世界と呼ばれ、内部は主観世界と呼ばれる。それらはそれぞれこの作品では室外と室内として描かれている空間のことであり、その境界に設けられた窓は目の役割に等しい。画家は視野そのものをタブローとして、この室内と室外の境界面に起きる出来事を作品にするが、それは、ときに感情、ときに思考という反応を通じて、一つの経験の風景としてモチーフ化されていくわけである。
ヌースがまずヌース的思考の大前提として、空間を内面と外面にカテゴライズするのも、この作品が提示している意図と全く同じだ。感情や思考といった主観的な意識の働きは肉体の内部にあるのではない。ましてや、脳の中でもない。この作品で言えば、この窓の形に描かれた「絵画」そのものの上にある。絵画が精神の表現となり得るのは、精神が絵画的であるからにほかならない。ユークリッド空間よりも射影空間の方がより本質的であるように、絵画は決して三次元の風景を平面で表現したものではなく、絵画的なものの方が延長世界へ射影され、三次元認識として開いているのである。その意味で、本当は、絵画的なものの方が高次の生成物である。
まぁ、こんなことは、絵画論の中では言い古されていることだが、この転倒関係をまずはしっかりと認識する必要がある。ヌースではこの作品におけるキャンバス部分を「人間の外面」と呼び、室外風景の方を「人間の内面」と呼ぶが、いずれにしろ、わたしたちは室内から外部を覗くとき、外面に穿たれた窓を通して、それこそ、身体そのものを裏返しにしていると言える。光の皮膚を突き破り、身体の外部へと出血を続ける魂——君も、明日から、自分の部屋の中から外に出るとき、また、反対に外出先から自分の部屋の中へ戻るとき、そこにある空間の捻れに注意を傾けるといい。おそらく、かすかにだろうが、皮膚の裏返る音が聞こえてくるはずだ。
ライプニッツは「モナドには窓はない」と言ったが、それは当然だろう。モナドそのものが窓なのだ。モナドとは二つの対立する世界の継ぎ目、捻れ目に生まれるものなのだ。目の前にその捻れ目が見えてくれば、君もヌースの世界に足を一歩突っ込んだことになる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 08_文化・芸術 • 1 • Tags: マグリット, モナド, ユークリッド, ライプニッツ, 内面と外面