1月 6 2007
人間がいる場所
思形と感性。この言葉には深い思い入れがある。それは、OCOTに「人間とは何か」という質問を初めてしたときのことだ。最初に返ってきた答えが「二つの性格を持つ軸」というものだった。そこで続けざまに「二つの性格とは?」と尋ねたとき、返ってきたのがこの「シケイとカンセイ」という語彙だった。今になって、それが俗にいう外在と内在、客体と主体という概念の彼らなりの表現であるということがはっきりと分かるが、当時はただただその奇妙な音の響きに魅了されるばかりだった。
さて、この思形と感性だが、ケイブコンパスの図でも分かるように、互いに噛み合う双対のウロボロス的構造を持っている。ψ9の思形はψ8の外在(時空)を観察し、ψ10の感性はψ7の内在(精神)を観察している。そして、これら両者の関係は自他の間で双対関係にある。つまり、時空も精神も二つづつ存在させられているということだ。精神はミクロの点的な世界へと丸まっていく性格を持ち、時空はマクロ世界に発散する性格を持っている。その意味で、精神進化の方向とは、つねにミクロに丸められていき、そこに層構造を折り重ねて行く。この折り重ねにヌース理論がいう「精神=物質」のイメージがある。原子や分子のことである。
一方、精神進化の方向が見えない意識(中和側という)は、つねに漠然とした時空的広がりの中でパイこね変換のように繰り返される精神進化の旋回舞踏を無条件に受け入れるだけとなる。つまり、精神が作り上げていく次元的差異が見えないのだ。その結果、中和側は時空という同一性の檻に閉じ込められることになる。
こうした構造の中では、実際には精神が階層を重ねていくたびに時空も多重化していっている。この多重化は丸まった精神側では中性子として映し出されることになる。というのも、精神には時空(中和側)が対化(自身の反映)としてちゃんと見えているからである。進化のプラスに対して反映のマイナスが働き、文字通りプラスマイナスゼロとしてそれは中和されている。こうした中和側が先手を持った認識の中では、精神が作り上げていく確固とした空間構造のカタチは見えず、その構造は残響のようなものとしてしか感じられない。この残響を僕らは「意識」と呼んでいると考えていいと思う。その意味で、意識は精神へのフィードバック機能として稼働している力とも言えるだろう。ヌースの言葉でいう「潜在化した変換作用」である。変換に逆らうものと変換へと再帰しようとするもの。意識はこの両者間の反復において初めてその働きを現働化させることができるのだ。
ここでザッと周囲の世界を見渡してみよう。君の周囲には数えきれないほどの物質が散在していることだろう。それはいろいろな種類の原子や分子でできている。そこで起こっている無数のスピンに想いを馳せよう。君が意識を持っているのは、それら物質内で起こっている無数のスピンがそうさせているからである。それら無数のスピンとは多種多様な階層における精神活動の影なのだ。このことは単に科学的な意味で言っているのではない。言うなれば、宇宙に存在するすべての物質、それらがほんとうの意味での君の脳だと考えなければならない。物質は天使たちで満たされているのだ。
精神進化にはある意味、極限点が存在する(ヌースでは「力の超心点」といいます)。その極限点は当然、物質としても時空内に構成されてくる。それは何か——それは「シリ革」でも書いたように永遠なるパルーシアとしての人間の肉体である。ヌース理論においては、人間の肉体は極限の精神存在の付帯質(影)として解釈される。現代科学の目が露にしてきている人間の体内で起こっているすべての生化学的な変化流動は、気の遠くなるほどの等化運動を進めてきた精神の履歴なのだ。そして、この肉体はそれが最後の者の影であるがゆえに最初のものと結合することができる。ここでいう最初のものとは、あらゆる創造の鋳型となるべきイデアの中のイデアのことである。これが宇宙的女性器としてのケイブである。この女性器に発生の起源はない。聖杯と呼ぶにふさわしい聖-処。聖-処女。プラトンはこうした始源の場所性のことをコーラと呼んだ。
——ソコデ、スベテガオワッテイル、トトモニ、ソコデ、スベテガハジマッテイル。
イデアの中のイデアはコーラであるとともに、モナドでもある。人間という場は、無限大と無限小の結節である。その結節は「重心」と呼ばれ、神の臨在する場所となる。そして言うまでもなく、神のペルソナは人格として現れる。
2月 1 2007
差異と反復………12
何がそんなに重大なのか——モノを中心にして「わたし」が回転したときに見えているモノの背景正面(天球面の内壁)が現存在としての人間(主体)の位置の萌芽であるといったことを思い出してほしい。それが今、モノの中心点と同一視されてしまっている。このことをどういう風に考えればいいのか。。すぐに実感するのは難しいかもしれないが、それは、主体(モノを見ている「ほんとうのわたし」)の本当の位置は、実はモノの中にあるということを意味している、ということだ。人間の外面においては、モノの内部と外部という区別は全く意味を持っていない。それは、ψ3の位置としてのモノの背景面が、このようにモノの内部と外部を等化(同一視)しているからである。つまり、差異の場は、3次元認識的に言えば、微小領域に縮められて見えてしまっているということなのだ。
3次元空間上の無限小と無限大が180度捻られて、その結果、無限小=無限大、無限大=無限小という、今までの空間認識上あり得ないと思われていた奇跡的な連結が認識に浮上する。当然のことながら、この反転認識によって、今度は全宇宙が点状の小さいな球体の中に叩き込まれているという事態が起こる。この事態を目撃したとき、君は生きながらにして死ぬ者となっていると言っていいのかもしれない。もっと大げさに言えば、死してなおも生きることのできる「無礙」(むげ)なる空間へ出たのだとも言えるのかもしれない。空海がいうところの「一即多」「相移即入」なる重々帝網の世界(華厳的パールネットワーク)がそこに現れるというわけだ。部分が全体を映し出し、また、全体が部分の中に収まるあのライプニッツが語ったモナドのランドスケープが、理性の中に朧げながらも出現してくるわけである。
こうした認識は4次元認識の萌芽と言ってよいものだ。モノの中と外を自由に行き来できる4次元人間の話を君も聞いたことがあるだろう。君はこの時点ですでに4次元の扉を開いている。人間の内面認識では君はモノの外にいると感じているはずだが、人間の外面が顕在化を起こしてくると、君(主体)はモノの中にいるとも言えるようになるのだ。内面認識では宇宙は広大無辺なものに感じられているだろうが、外面認識では逆に宇宙空間はモノの内部に存在しているように見えてくる。当然のことながら、このような空間認識が生まれてくると、見るものと見られるものなどといった今まで僕らが持っていた頑な主客二元論的な区別は消失する。見るものとは見られるもののことであり(クリシュナムルティ)、僕らはモノの内部からモノの外部を見ている(ベルクソン)のである。
そして、このことの発見はいよいよ物質が思考を孕む、あの宇宙的妊娠の意味を持ってくることになる。つまり、思考(ロゴス/精子)が初めて物質表象の内部の空隙(コーラ/卵子)に接触してくるということだ。存在の円環におけるオメガとアルファの結節という言い回しで、僕がいつも話しているものとは、実はこの観察(主体)における無限大と無限小の連結のことなのである。
モノの背面にある奥行き方向が作る3次元の広がりと思っていたものが点的な球体に縮むということは数学的に言えば、(x, y, z)が(dx, dy, dz)に変換されるということでもある。これは微分の意味に他ならない。ここでドゥルーズの〈差異化=微分化〉という言葉が浮かんでくる人もいるかもしれない。ドゥルーズは内在面としての主体の場を強度の場(知覚が受ける強さの場の意味)と考え、そこが微分化された領域であると考えていた。その著「差異と反復」の理念の章の中でドゥルーズはさらりと言ってのける——微分dxとは理念(イデア)である——と。ドゥルーズの微分概念の借用はその手の専門家から厳しい批判を受けてはいるが、微分が内在面への接触であるというドゥルーズの主張にヌース理論は全面的に賛同したい。ちょっと偉そうだが、ただしそこには条件が欲しい。その条件とは今までの話の経緯からも分かるように、「- i」をくっつければ、という条件である。内在面が強度の場である限り、そこには実の3次元空間ではなく反転した空間としての虚空間、それもマイナスの虚空間が同席していなくてはならない。これを記号で表せば(-idx. -idy, -idz)ということになるだろう。この表記はそのままψ3の位置を抉り出すための数学的表現になっていることが分かるはずだ。ここにプランク定数を2πで割ったものh(-)を掛けて、微分記号を偏微分記号に変えてやれば鬼に金棒となる。というのも、これは量子力学においては運動量の量子化の手続きそのものを意味することになるからだ。つづく。
By kohsen • 差異と反復 • 2 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, モナド, ライプニッツ, ロゴス, 内面と外面, 差異と反復, 量子力学