2月 20 2015
カタカムナとの久々の邂逅
今月28日、大阪でカタカムナの研究を長年されている土居先生とジョイント講演会をやることになった。これは関西ヌーソロジー研究会の川瀬氏と観音企画が共同で企画してくれたものだ。
ヌーソロジーがなぜカタカムナに関心を持つのか。答えは簡単で、OCOT情報がカタカムナ文明の存在を肯定していたから^^。
OCOT情報に拠れば、カタカムナはヌーソロジーでいうヒト(覚醒期における意識を持つもの)の思考形態の名残だという。1990年代にこのカタカムナの存在を知った僕は、当時、相似象学会を主催されていた宇野さんに電話を入れて、関連する書籍を全部入手したりもした。
OCOT情報は日本語を構成している精神は存在の純粋な幾何学に直結していると常に言っていたので、カタカムナが示している図象符と音声符にはかなり興味深いものを感じた。しかし、日本語の48音と図象文字の符合にしっかりとしたロジックが読み取れず、結局、途中で断念してしまった。
あれから20年…。OCOT情報の全体像も今では当時よりもはるかに見通しのいいものなった。それは今ではヌーソロジーという名を持ち、[脱表象化]のための一つの思考体系として機能しつつあると感じている。
この「OCOT情報の今」を通して、再びカタカムナの世界を見てみると、当時は見えなかったカタカムナの中に潜む一貫した思念性がある程度ではあるが理解できるような気がしている。
何と言っても重要なのは、横線と縦線で表現されるアマウツシとカムウツシという基底思念である。これについては、レクチャーや講演でも折に触れて話している。
カタカムナでは横線のアマウツシは生命の広がり、縦線のカムウツシは生命の持続を意味すると言われている。これらを抽象的な観念として解釈しない方がいい。これはダイレクトに「幅」の世界と「奥行き」の世界の関係を表している。
そして、この二種類の空間の質的な違い、それは空間のセクシャリティー(男女性)と言ってもいいものなのだが、これをしっかりと把握することにカタカムナを単に古代の知識としてではなく、今尚、この現在に潜象として働きかけている精神の息吹として感じ取っていくためのカギがある。
哲学の言葉でいうなら、これらは延長と持続であり、OCOTの言葉でいうなら人間の内面と外面のことだ。28日はこうしたカタカムナの世界観に対してヌーソロジーから補完できる部分の話をしてみたいと思う。
くわえて、カタカムナの解明に一生を捧げられた楢崎皐月氏と宇野多美恵さんの気高い精神性にはほんとに頭の下がる思いだ。こうしたものを遺していただき、ほんとうにありがとうございます。
あっ、そう言えば、今回、カタカムナの音声符と図象符を眺めていて一つだけ面白い発見があった。それは以前、OCOTに不確定性原理について尋ねたときのことに関するものだ。
不確定性原理の本質は奥行きが縮まれば幅が拡大し、逆に奥行きが大きくなれば幅が収縮する「空間の見え」にあるのだが、それは何に由来するのか?と尋ねたときのことだ。OCOTは「それはチカによるものです」で言っていた。チカ?地下?地価?それとも、千佳ちゃん?(笑)。
訳の分からない言葉だったが、カタカムナでチカの図象符を構成してみると、アマウツシとカムウツシを挟んでの90度回転に対応していた。それもご丁寧に「マリ」がついている。カタカムナでは「マリ」とは微分量の意味である。位置と運動量のイメージにピッタリだ。こういうものがたくさん見つかるといいのだけどね。。
2月 27 2015
カタカムナ人の世界へ
相似象学会誌第四号を再読中。久々に読んだけど面白い。時間と空間に対する考え方がヌーソロジーと全く同じ。
「トキトコロは現代人の時間空間とは全く関係なく、物質の中に存在するマリ(粒子)であり、物質の質量といわれているものは、このトキトコロのマリの量によるもの云々」P.126。
空間や時間といった延長性がどのようにして微粒子の中へと入り込むかという仕組みがカタカムナ人には見えていたんだね。ただそれが「奥行きを通して」というところまでは、楢崎さんや宇野さんは思考していなかったようだ。
思考の場を奥行き=持続において、それ自身をカム(潜象化)と見なせば、アマ(延長性)とカム(収縮性)の接続のルートが開き、思考は自在にマリ(粒子)と化し、ヒビキ(霊引き)によって、アマナ(原子核)の構成の場所へと入って行ける仕組みになっている。それが複素空間における回転性だね。
そう考えると、現代物理学というのは潜象界のヒビキの地図作成術に携わってきたアマ側の活動のようなものだったとも言えるんじゃないかな。そして、そこに見出されたものがヤサカノマガタマ(七種の単玉)で、これを現代物理学は余剰次元としての7次元球面S^7として見ている。そんな感じだね。
でも、大事なことは、こうした知識を対象として所有することではなくて、やっぱり「それに成ること」なんだと思う。これがぶ厚いカベ。だから、自分を持続の中に溶かし込んで、持続そのものとなって思考する努力と忍耐が必要不可欠なんだね。
スピノザのように「永遠の相のもと」に、ベルクソンのように「純粋持続に身を投げ入れ」、メルロポンティのように「奥行き」において、ドゥルーズのように「非人称の主体」として思考する分身を内在性の中に育んでいくこと。これが霊性を思考する者にとっての絶対条件と言えるんじゃないかな。
でも、それって、すでに生きながらにして死んでいる者だったりして(笑)
そう、それでいいのだ(笑)。
生と死もまたマワリテメグルものなのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 2 • Tags: カタカムナ, スピノザ, ドゥルーズ, ベルクソン, メルロ=ポンティ