8月 19 2009
ニーチェ、ゾロアスター、反復不可能な反復
久々に開催したレクチャー。途中「永劫回帰」を巡ってニーチェの話を少ししたのだが、「同じ世界が幾度となく巡ってくる」というこの狂人的なアイデアをニーチェが提出したのはかの『ツァラトゥストラはかく語りき』という著作の中でのことである。さて、ニーチェは一体どこからこのような発想を思いついたのか。研究者の中には、当時、台頭してきていたボルツマンの熱力学からの発想だという人もいるのだが、個人的な私見ではそれは見当はずれのように思えてならない。確かにニーチェは自らの哲学の背景に科学的根拠を導入する必要性を感じてはいたが、熱力学のいうエントロピー概念を永劫回帰に結びつけるにはやはり無理がある。もともとニーチェは古代ギリシアに関する文献学の研究者であり古代思想に精通していた。ニーチェがいたずらにツァラトゥストラに自らの哲学を代弁させたとはとても思えない。ツァラトゥストラとはゾロアスターのドイツ語読みである。となれば、おそらくゾロアスターの思想そのものから永劫回帰は借用されたと考えるのが自然だ。ゾロアスターからエンペドクレスへ。そしてピタゴラスからプラトンへ。プラトンのいう大年周期(26,000年)もまたこの永劫回帰の一つの表現だろう。
ゾロアスター教はゾロアスターによって説かれた人類最古の預言宗教である。ゾロアスターの出生時期には諸説があって定かではない。古くはB.C.2000年ぐらいとするものからB.C.600年頃とするものまで様々だ。ただゾロアスター教のユダヤ教に対する多大な影響を見て取れれば、ゾロアスターがモーゼよりも以前に生まれたと考えるのが自然だろう。『シリウス革命』でも紹介したように、ヌーソロジー自体、その骨格部分においてゾロアスター思想との共通点が多々あるのだが、参考までにその幾つかを紹介しておこう。
1、世界は約12,000年ごとに更新される。(ヌーソロジーでは13,000年ごと)
2、この12,000年は第一の世界(6,000年)と第二の世界(6,000年)に区分される。(ヌーソロジーでいう「潜在化の次元」と「顕在化の次元」に対応すると思われる)
3、至高神アフラマズダは世界の始源においてまずアフラ神族として6柱神を生んだ。(Ω1~Ω6の形成)
4、その後双子の兄弟神スプンタ・マンユ(善神)とアンラ・マンユ(悪神)を創造した(Ω7~Ω8の形成)。
5、アンラ・マンユ(悪神=破壊神)が第一の世界を作る(潜在化の次元/Ω9~Ω10の形成)。
6、スプンタ・マンユ(善神=創造神)が第二の世界を作る(顕在化の次元/Ω11~Ω12の前半部の形成)。
ヌーソロジーが用いる大系観察子と呼ばれる概念(Ωで示している記号)を混じえての表記なので、少し分かりにくいかもしれないが、これらのプロセスにΩ11とΩ12の後半部が加わることによって、世界自体は2度の創造活動を経験し、24,000年(ヌーソロジーでは26,000年)で、その完成を迎えるという筋書きになっている。
ご覧になって分かる通り、ここには現代の科学が明らかにしている宇宙の歴史とは全く違った物語が展開している。科学的知識のみに偏向している人にとっては、これらの内容はオカルトにしか見えないことだろう。まぁ、正真正銘のオカルト(神秘学)ではあるのだが。。しかし、ヌーソロジー的見地から言わせて貰えば、これら宇宙の発展プログラムを押し進めている機構こそが科学が考察している素粒子構造そのものではないかと考えられるのだ。もし素粒子世界と人間の無意識構造を重ね合わせてみることのできる空間認識が人間の意識に立ち上がってきたならば、逆に理性ある人ほど、ここに挙げた内容が狂気には映らなくなるかもしれない。
OCOT情報によれば、素粒子世界とは本来、時計的な時間の外部に存在しているものだ。ここでいう時計的な時間の外部というものが何を指し示しているかと言えば、それは他ならぬ人間自身の意識の中にアプリオリにセットされている観念の世界である。点の観念、円の観念、球体の観念、さらにはそれを見る観念。。。プラトンの問題提起以来、いかなる思考もこの幾何学的観念の由来の問題に挑んではいない。観念抜きでカタチの描像はあり得ないし、空間や時間の描像もあり得ない。知覚自体がこうした観念の連合によって支えられていると言っても過言ではない。目の前にあるリンゴやパチンコ玉や地球が「丸い球体状のもの」として把握できるのは、こうした観念の力が意識の中でつねに働いているからだ。
カタチとは見られるものではなく見ているものである(OCOT)――全くその通りではないか。物質の最も基本的な形状を球体とするならば、それを見て取っている観念そのもののカタチが物質の基礎となる陽子だとOCOT情報は伝えている。もしそれが真実ならば、見ているものの力が見られるものの中にそのまま入り込むような機構がこの空間には仕掛けられているということになる。こうした接続にわれわれの理性が気づいたとき、理性は大挙して無時間の世界へと相転移を為すことだろう。そのときはじめて理性は永遠なる女の肌に触れることができる。観念の思惟においてわれわれは物質の根底と結合している。と同時に、物質の根底においてわれわれは創造の始源とも接合している。この接合点へと人々の視線が向き始めることの中にのみ、人間が人間を別の生き物へと変えていく可能性が存在している。
時間を絶対的な先行者として措定する僕らの思考様式では、当然のことながら世界は歴史によって綴られて行く。しかし、時間を外した思考においては、時間の発生自体が歴史の一部にすぎなくなるだろう。くしくもゾロアスターは言う。創造世界という無限の中ではアンラ・マンユはアフラ・マスダに勝つことはできない。そこでアンラ・マンユは時間を無限から引き離しその寿命を作ったのだと。ならば、時間とはアンラ・マンユが作り出した詭弁にすぎない。観念の構成をいかにして高次元空間の幾何学の中に表現していくか――そして、それをいかにわれわれの実体感覚へと変えて行くか。。ここにヌーソロジーの見果てぬ夢がある。
8月 4 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その5
――前回からのつづき
フッサール哲学とハイデガー哲学の差異を生命の樹で表すとすれば、フッサールがアッシャー領域の内部を網羅して見せたのに対し、ハイデガーはその外部を開いて見せ、同時にその外部へと向かうためにアッシャーの足場たるマルクトの解体を試みたという感じだろうか。アッシャー圏の最上位にその統括者として位置するティファレトとは哲学的に言えば超越論的主観性(自我)の位置であり、フッサールの思考はイエソド(これがアプリオリな無意識構造の取りまとめ役に当たる)を中心に広がるアッシャーの光の痕跡を拾い集め、ティファレトを中心とするイェッツェラー圏の存在を現象学的な構成分析として指し示そうと奮闘した。
しかし、結果的にティファレト自体が持った自我同一性によってすべての語りがモノローグに終わり、アッシャー内の意識の同一性をより強固なものにするに止まってしまった。
一方、ハイデガーは主体の思考全般を象っている言葉自体を主体からまずは脱臼させることから始める。ハイデガーによれば「言葉とは存在の家」であり、そこでは存在自体が主体を通して言葉を語らせているのであって主体が言葉を操っているのではない。言葉とは存在者の異名に他ならないのであるから、これはアッシャー圏の基底となるマルクトという存在者の王国を何か全く別なものへと変質させようとするハイデガーの意図の現れと解釈できないこともない。
僕自身は、ハイデガーの狙いは生命の樹に即して言うならば、生命の樹そのものの引っくり返しそのものにあったのではないかと考えている。つまり、存在者=多なるものの世界(マルクト)に重なるとされる存在=一なるものの世界(ケテル)を現出させることによって、生命の樹自体を支配している神と被造物の審級の関係を一気に逆転させようとしたということだ。
これはニーチェが行おうとしたプラトニズムの逆転のアイデアをハイデガー風にアレンジしたものと言える。これによって主体の生は意識の方向性の反転を余儀なくさせられ、死の欲動のビジョンの開示へと向けられる。彼が死への先駆的覚悟性と呼ぶものだ。
この視座の反転によって主体はマルクトではなくイエソド(ここは人間の死の場所性と考えられる)を実在世界と見なすようになり、ハイデガーのいうこの投企の行為によって足場をすくわれたアッシャー圏は逆光のエネルギーを減衰させ、そこに自然とイェッツェラーが放つ順光によって照らし出される主体外部の風景が朦朧と浮かび上がってくることになる。
ティファレトという存在はアッシャー圏から見ればその内部性の最上位に位置するが、それは同時にイェッツエラー圏の中心位置としてアッシャーの外部とも言えるような二重の点になっており(図参照)、ハイデガーがいうところの現存在の二重襞性(主体がオブジェクトレベルでもありメタレベルでもあるということ)を擁している特異点である。ハイデガーはこの二重性を看破はしたものの、その外部が何かははっきりとは見えなかった。
彼が『存在と時間』を完成に漕ぎ着けられなかったのもそのためだろう。破壊された容器の修復の着手にはもっと別の何かが必要なのである。
と言って、もちろんハイデガーが何もしなかったわけではない。ハイデガーはアッシャー圏の限界を熟知し、イェッツェラー圏への方向転換を目指し、死の空間の向こうに広がる存在の重大な秘密を開示させようとした。その秘密とはまさにヌーソロジーがその構成に着手しようとしているモノの本性への侵入のことなのだが、ハイデガーにおいては、その試みは「大地」「天空」「神的な者たち」「死すべき者たち」という彼自身が四方界と呼ぶ意味不明な暗号の中にうやむやにされたままに終わっている。
ハイデガーが垣間見たこの四つの方向性は、彼がその二重襞たるティファレトにおいて絶えず思考していたと仮定すれば、さほど難しい内容を語っているわけではない。それはモノの創造における天空への開示、そして、大地への開示、さらには、それらの開示を与える者と受け取る者の配置関係についてである。
セフィロトで言えば、ティファレトから分化するケセドとゲブラー、そして、イェツェラーからベリアーへと突き進むもの、そのときの反対物としてアッシャーへと戻されるものという関係になる。言うまでもなくケセドが天空の開示であり、ゲブラーが大地の開示である。
そして、ベリアーへと突き進むものが神的な者たちであり、アッシャーへと降りてくるものたちが死すべき者である。こうした未知の高次の空間の分化/展開は現代物理学の発展を見なければその論理化は不可能である。いずれにしろ、ハイデガーは性急すぎたのだ。
→つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連, ハイデガー関連 • 0 • Tags: カバラ, ニーチェ, ハイデガー, マルクト, 生命の樹, 言葉