11月 12 2005
Dr.ブネウマ
今日は久々にパワーある人物と会った。福岡市内でクリニックを開業しているお医者さんなのだが、患者さんに勧められて読んだ「シリウス革命」にあまりの衝撃を受けたということで、ここ2週間ほど前から熱心なファンレターと一緒にご自身の著作数冊を数回に渡って贈呈してもらっていた。是非一度お会いしましょう、ということになって、今日、市内の某ホテルで夕食をともにした。
この先生、経歴がとてもユニークで、法学部を卒業した後、医学部へ行き、その後、ロンドンやニューヨークに留学し、日本に戻って大学病院に勤め、その後、1985年に福岡市内でクリニックを開いたという。クリニック自体は皮膚科なのだが、実際は、全国からガン患者さんばかりが訪れる「ガン治療」専門のドクターだった。おそらくその分野で相当に有名な先生なのだろう。著書は40万部売れたという。「どんな末期の患者さんでも9割は治るんだよ。実際にわたしは今まで5000人を治してきた。」と力強い口調でおっしゃっていた。
霊的な世界に興味を持ってからまだ日は浅いとおっしゃられていたが、いやいや、その読書量はハンパじゃない。カント、ヘーゲルなどの哲学ものに始まって、E・スウェデンボルグやR・シュタイナーといった霊的世界もの、さらにはD・ボームやR・ペンローズなどの意識物理もの、その他、文学、芸術など、実に幅広いジャンルの知識がある上に、存在自体が反骨精神のかたまりのような人なのだ。もちろん、彼にとってレジスタンスを行うべき勢力とは、産-官-学の癒着が最も強いと言われているあの医学界である。現代医学のガン治療の背後にある様々な欺瞞について鋭い発言が次々に飛び出す。実際にどれだけ見捨てらている患者がいるか、切って飲ませて焼くことしか能がない医者の無能さ、金と出世しか頭にない魑魅魍魎ども(とそこまでは言わなかったが)、この先生、本当にお医者さん?と思うほど、容赦ない現場批判が次々に飛び出す。そのあまりの過激さと痛快さに、久々に腹の底からゲラゲラと大声を上げて笑わせていただいた。お年は60歳、見た目はかなりインテリっぽい容貌なのだが、スピリットはまさにパンクロッカー、ほんと強烈である。気に入った!!
何でもわたしと会うというので、この1週間というもの「シリウス革命」を再度5回通読されたらしい。もちろん、全部を理解ができたわけではないが、その思考の切り口に今までの読書体験にはなかった衝撃を受けたという。わたしが「ほー、そんなもんですか。」と自分としては、年少者でもあるし何事も謙虚さが大事、というつもりでニコニコして遠慮がちにうなづいていると、いきなり、「半田さん、もっとガツンといかないとダメ。こんなすごい理論は他にはないんだから、もっと爆発しないと。わたしはこんなに興奮してるのよ。」といきなりのダメ出し。わたしの場合、パワーがないと言われてしまうと、ムッときて、いきなりNCターボのスイッチを押してしまうクセがあるので、あとは、もう二人で爆発しまくり。久々にスケールの大きな楽しい夜となった。
実に痛快な先生である。この先生は創造的な思想には精確さよりも狂気が必要であるということを十分に分かっていらっしゃる。新しいものを生み出して行くためには、評論家のように意識がこじんまりまとまってしまってはダメなのだ。野武士のように荒々しいギラギラとした精力を持たなくてはならない。人の心に訴えるのはそうしたエネルギーである。ここ1〜2年、レクチャーを休んでからというもの、どちらかという自分自身の内部に入り込む時間が多すぎたのかもしれない。人は内に入ると深部に分け入っているつもりでも、実は、同じ浅瀬を堂々めぐりしていることが多い。大切なのは、やはり、いろいろ毛色の違った人たちと顔と顔を合わせ語り合い、互いを高め合って行くことだ。知識との出会いも確かに重要だが、人との出会いはリスクが大きい分、逆に生(なま)の熱を帯びた情動と出会うことができる。百の冷めた知識よりも、一の熱い情動。生きる魂の糧としては、その方がはるかに重要だろう。自分の原点を再度、思い知らされた気分である。新しい本を書く上で、多いに収穫がある出会いとなった。H先生、わしも負けんよ。世界を変えませう、べらぼうめ!!
12月 13 2005
精神現象学
新著の構成が今ひとつはかどらない。こういうときは普通なら気分転換をはかり、街に出るなり、音楽を聴いたり、映画を観たりするところだが、わたしの場合は違う。自分を徹底的にいたぶる。哲学書を読むのだ。考えがまとまらないときの頭の状態というのはえてして考えているようで考えていないときが多い。思考の問題というより意欲に欠けているのだ。欠けた意欲は気分転換では補うことはできない。徹底して自分を痛めつけるしかない。痛めつけることによる触発が必要なのだ。そうやって今日、本棚から取り出したのは「精神現象学」(長谷川宏訳 作品社)という一冊の分厚い本だ。ヘーゲルが37歳のときに記した代表作である。恥ずかしながらこの本は5000円もの大枚をはたいて購入してはみたものの、一度も読んだことはなかった。
以前、詩人の河村悟から「ヌース理論は理性だからダメだ。ヘーゲルの絶対精神ではダメなんだよ。」と手厳しく批判されたことがある。彼は決してポストモダンかぶれの人ではないが、詩人という立場上、理性的なもの、特に弁証法的な粗雑な思考形式を毛嫌いしていた。河村氏は思想・哲学に関しては生字引のような人物で、当然、わたし程度の知識量で彼に議論を吹きかけるなど自殺行為も同然だったが、カチンときたわたしは「理性には人知れぬ理性というものがありますよ」と言い返した。幸いにもそのときは彼がニヤリと笑っただけでことなきを得たが(笑)、それ以来、わたしにとってヘーゲルは気がかりな存在となっていたのだ。しかし、本格的にヘーゲルは読んだことはなかった。いざ読もうと思ってもなかなか触手が伸びない。ヘーゲルについて知ってることと言えば、弁証法と絶対精神という言葉。遅咲きの哲学者だったこと。カント哲学の批判的継承によって近代哲学を集大成した哲学者。ヤコブ・ベーメの思想に大きく影響を受けていたこと。ルター派の熱心な信者だったこと。このくらいである。
ヘーゲルはもともと弁証法のアイデアを17世紀の神秘家ヤコブ・ペーメからパクっている。自己意識の本性を徹底的に追及していくなかで、彼はそこに神の自己意識を合わせ見た。ヘーゲルの弁証法の基盤はこの人間の自己意識と神の自己意識の弁証法的展開にある。「一切のもののなかに神の三位一体をとらえ、あらゆる事物を三位一体の露呈ならびに表現としてとらえる」というヘーゲルのベーメ評はそのままヘーゲルにも当てはまる訳だ。ヌース理論は基本的にはこの伝統的な弁証法の概念に他者性を取り込むことにより、「ペンターブ・システム」という概念によって双対化し、その運動を空間の対称性の拡張秩序へと転化させ、最終的には「観察精神」という一者へと止揚させていく。その意味では極めてヘーゲルっぽいのだ。
それにしてもこの本のエンディングはいい。やる気がみなぎってくる。
——目標となる絶対知ないし精神の自己知は、さまざまな精神がどのようなすがたをとり、どのようにその王国を構築したのか、という事柄に関する記憶を道案内人とする。その記憶を保存しているものとしては、偶然の形式をとってあらわれる自由な精神の歴史と、それを概念的な体系の形として示す「現象する知の学問」とがある。二つを一つにしたところの、概念化した歴史こそ、絶対精神の記憶の刻まれたゴルゴタの丘であり、生命なき孤独をかこちかねぬ精神を、絶対精神として玉座に戴く現実であり、真理であり、確信である。シラーの詩「友情」の一節にあるごとく、この精神の王国の酒杯から、精神の無限の力が沸き立つのだ。
新しい理性がやはり必要だ。心優しい理性。海のようにすべてを溶かし込む理性。それは男の感性と女の理性を併せ持ったもの。。優しくなければ理性ではない。だろ?
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 11 • Tags: カント, 河村悟