3月 8 2008
太陽と月に背いて(3)
写真はhttp://iwa4.air-nifty.com/blog/cat1463380/index.htmlからお借りしました。
我が汝のもとに至るためには、我は一度モノにならなくてはならない。ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませが、このことは言い換えれば、「わたし」と「あなた」との間には物質という距離が存在していることを意味します。「わたし」という得体の知れない何かが生まれている位置と「あなた」というこれまた得体の知れない何かが存在している位置を互いに交わさせること。一言で行ってしまえば、それがヌース理論における「次元の交替化」の意味であり、ヌース理論のアセンションとはそのことを言います。
陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる——古代中国のタオイズムが伝えているように、万物はすべて交替しながら、その歩みを進めて行きます。歩行であれば、右脚と左脚が交互に前後に交替することによって。車の車輪であれば上下が絶えずその互いの役割を交替させることによって——こうしたポジションチェンジの背景には、常に回転という円環的な運動が存在しており、宇宙もまたその例外ではない、ということなのです。
「わたし」と「あなた」という存在がもし宇宙存在の根本的な二元性であれば、当然、この両者も、ある奇跡的な回転(クリスチャンであれば、これを「恩寵」と呼ぶことでしょう)によって、その互いの役割を交替化させ、宇宙自体をまた新たな姿へと変化させていく、ということになります。
さて、となると、この存在そのものがグルリと回る回転は、「わたし」と「あなた」をモノ自体としての場所であるシリウスで一度、邂逅させることになるわけですが、この通過儀礼が一般には「宇宙創造」と呼ばれる神の行為と深い関係を持っていると考えられます。つまり、自他それぞれが自身の御霊を見出し、その二つの御霊が結び合い、いわゆる国生みの儀式(クミド)を行なうわけです。このクミドに関わる数が、マヤ暦のツォルキンなどにもとても重要な役割を果たしているとされる「13」という数なのです。
これは古神道的に言えば「十三霊結び」というものに当たるのですが、ヌース理論から考えるとこの「十三霊結び」には二つの役割があります。簡単に言えば、御霊を上で結ぶか、下で結ぶかの違いです。下側で結ばれたときが、本霊(もとみたま)が分霊(わけみたま)に宿る役割を果たし、一方、上側で結ばれていくときが分霊が本霊へと統べられていく産霊(むすび)、すなわち、新しい「国生み」となります。その意味で言えば、2013年以降に訪れようとしている意識的な大変化とは、この上結びとしての「十三霊結び」に向けて、下結びとしての「十三霊結び」が解かれ始めることだと言えます。
これはユダヤ-キリスト教的に言えば、父と子による契約の解除に相当すると考えてよいでしょう。この解除命令を携えてやってくる伝令が大天使ガブリエルです。オコツトはこうした宗教的な内容を次のような簡潔な一言で表現しています。
人間の意識進化とはなぜ起こるのですか?
オリオンが方向を回転させるのです——シリウスファイル
下結びとしての「十三霊結び」とは、本来、創造者と人間との間を繋いでいた中間領域の存在たちが、下結びの中の結び目として表れるということを意味します。というのも、この結び目自体が中間領域で織りなされる「わたし」と「あなた」の間の13回の眼交い(まぐわい)に起源を持っているからです。そして、この結び目が実はわたしたちが「物質」と呼んでいるものの本性なのです。ですから、父と子が直接的に契約を結んだユダヤ的精神の中では、その間をつなぐ中間領域の聖霊たちは子なる人間の世界には物質として出現してくることになります。つまり、モノが「わたし」と「あなた」の媒介者、つまり、メディアの役割を果たしているわけです。
資本主義の話はヌース理論でもいずれ詳しくしていくことになりますが、わたしたちの社会的現実が資本主義の運動をまるでそれが生活のすべてかのように動いてきたのも、実のところ、経済活動というものが、聖霊界のコミュニケーション的運動だからにほかなりません。もちろん、このコミュニケーシヨンには一者たる父の統制が引かれています。それは次の三つのものに姿を変えて出現していると考えられます。
- 貨幣
- 言葉
- 時間
です。
ここではヌース理論からの貨幣論や言語論、時間論などを語っている余裕はちょっとありませんが、この三者が密接に関係しているということだけは、ヌース理論に多少でも興味を持たれている方は記憶に止めておいて下さい。
おっと、話がちょっと横道に逸れたような。。まぁ、いつものことです。もうすぐ来客なので、続きはまた今度ということで。
5月 2 2008
時間と別れるための50の方法(8)
視野空間を「面」として見る——このことは決して視野空間を2次元の平面として見るという意味ではないので気をつけて下さい。視野空間と云えども、そこには奥行き方向も含まれているわけですから、ここでOCOTのいう「面」とはあくまでも3次元空間のことになります(正確には3次元空間内の一つの方向が一点同一視され面のようなものへと変換された「2次元射影空間」というカタチです)。このことは、こうした「面」を見ることにおいて、その観察の視線は一つ上位の次元に存在しているはずですから、この「面」への観察が行われている空間が4次元空間であることを示唆しています。
普段、僕らは空間を3次元と考えているので、世界に対して視線が入射してくる方向を、視野に映っている面をx-y平面と考えれば、それに直交するz方向として考えがちです。しかし、このような思考は自分の位置をすでに3次元空間上の点のようなものとして想像してしまっていることによって生まれてきています。つまり、前々回、前回と詳しくお話ししたように、モノの手前側に自身の目玉や頭部を想像的に位置づけて、そこに「世界を見てるとする自分」の位置を思い措き、その鏡像とも言っていい位置に3次元的方向を見出し、概念化しているのです。ですから、本来の実像としての自分、つまり、「前」=知覚正面自体は、この3次元性の中には存在していません。
ホントウノ、ワタシ、トハ、モノソノモノ、ノコト、デハナカッタ、ノカ?
デハ、モノハ、ナゼ、ワタシヲ、モノノ、ガイブニ、オイヤル、ヒツヨウガ、アッタ、ノカ?
言うまでもなく、モノそのものはモノを見ることはできません。モノがモノを見るためには、モノではないもの、つまり、モノをモノとして対象化できる外部を作り出す必要があります。そして、モノを対象化する外部を作るためには、モノ自体をその外部へと逸脱させるための能動力と、その反映として現れる受動力の二つの方向性が必要になります。もちろん、ここでいう受動力の方が鏡像としての「わたし」です。なぜなら、その「わたし」はモノの由来を知らないからてす。その「わたし」は、ただ、モノを受け取るしか能がない。生まれて気がついたらモノが目の前にあった。
しかし、他方の能動力の方はモノの由来をある程度は知っています。知っているからこそ、モノ自体の世界さえをも乗り越えて彼岸に渡ろうとしたわけです。その意味で、この能動力は此岸にいる「わたし」には決して触れることのできないもの、つまり、他者となっているのです。本来、世界そのものであったわたし。そこに鏡としての他者がすでに配置されており、その中に、人間としてのわたしが産み落とされる。そして、わたしはその鏡像に同一化し、わたし本来の「前」を喪失し、今度は他者の後ろを持ち込む。。光速度という名のわたしの皮膚はそのでっち上げの偽の「前」方向への視線によって突き破られ、主体であったモノは客体としてのモノのように振る舞うようになる。要は、他者という名の鏡と自己という名の鏡像が能動と受動の関係を作っているということです。
こうして、「あなた」という存在、つまり他者は、「わたし」にとって、モノから常に超出した、モノの彼方にいる者として存在し、一方の「わたし」、つまり自己はモノから常に疎外され、未だモノに成りきれぬ者として、モノの手前に存在させられているわけです。以前、お話したように、これら三者はオリオン(真実の人間)、シリウス(ヒト)、プレアデス(人間)の関係にあります。
モノジタイ、デアルコト、ハ、ラクエン、デ、アッタ。
アダム、ト、イブ、ハ、ナゼ、ラクエン、カラ、オイダサレナケレバ、ナラナカッタ、ノカ?
モノからのこの相異なる二つの方向への相補的分離の様子は「人神/アドバンスト・エディション」の380頁で紹介した交合円錐のモデル(図9/向かい合う他者の視野空間と交合円錐)を使うと比較的簡単にイメージすることができます。
この交合円錐モデルでは、自他の視野空間と瞳孔の関係を互いに交差する二つの円錐の底面と頂点の捻れの関係で表しました。このとき、自他の視野空間をモノから超出した力、自他の瞳孔をモノから疎外された力と考えてみるのです。というのも、瞳孔とはわたしたちが普段、3次元空間内で自分の位置と考えている場所のことであり、その瞳孔に対する認識は、上にも示したように、他者の視野空間に支えられて初めて出現することができるものだからです。——まだまだ続きますよ。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 4 • Tags: オリオン, プレアデス, 人類が神を見る日