9月 15 2022
老いて幼児へと回帰すること。そして、あわよくば胎児へと・・・
物理学にいうカイラル対称性の破れとは右巻き粒子と左巻き粒子の区別がつかなくなることを言うが、素粒子を無意識構造と見た場合、おそらくこのことが空間の一般化を意味している。人間の空間認識を一様にしている原因となっている無意識の動きだ。
小学校1年生で先生から右と左を教わったとき、どうしても理解できなかったのが自分と先生の右と左の関係だった。
向かい合った状態では当然、先生の右手側は僕の左手側になる。だから、先生が「こちらが右手です」と手を上げたとき、僕は自分の左手が右手にしか思えなかった。
「はい、右手を上げて」と先生に言われ、左手を上げる僕。
「違います半田くん。何度言えば分かるんですか。」と段々とイラついてくる先生。
この応酬が何度も繰り返され、結局僕は右という概念を「先生とは反対」というかたちで受け入れた。
右巻きと左巻きが区別がつかなくなった空間において、右巻きと左巻きの区別は一体どこに行ってしまったのだろうか。物理学的に言えば、それがおそらく消えた反粒子の世界につながっている。物理的に世界を見ている限り、この世界に他者はいないということだ。
光の孤児としての私。
カタチのない精神。
言葉に生きる人間。
僕にとっては、これらすべてが同意語に聞こえる。
やはり僕には今の常識的な空間の見方が根底的に間違いを犯しているようにしか思えない。実のところ、空間は自分自身であって、空間の中にいるとされている私の方はおそらく偽物だ。とすれば、そこから派生してくるすべての知識もまた偽物だということにならないか。
ベルクソンの言葉で言えば、空間にいる私は「表層の自我」であり、空間自身としての私は「深層の自我」ということになるだろう。多くの人が深層の自我に目覚め始めた時代。表層の自我が作り出した表層の知識は、深層の自我が送り出す新しい知識に駆逐されていくことになると思う。
(下写真/「鏡の中のジョージ・ダイアーの肖像」フランシス・ベーコン)
9月 20 2022
ハイデガーの存在の思考をヌーソロジー的に示すとこんな感じ
物の外部には実は瞬間性しかない。物は現れたと思ったら、その像はすぐに記憶として物の内部へと奥行きを通して回収されて行っている。そこで回収を行っているのは、紛れもない”持続”としての自分であって、この毎瞬、毎瞬の回収性のなかに時間感覚が生じている。物の運動イメージ一つとっても、こうした回収によるものだ。ベルクソン感覚だね。
問題はそうした毎瞬がどのようして物の外へと飛び出してくるのかってこと。構造的には、それは他者に見られるという経験が発現させてくるものなのだけど、物は自分自身を外から物質として見るために、他者を用意したのだとも言える。他者から見られて自我が生まれるのも、物が自分を物質として見る拠点を持つためだと考えるといい。
いずれにしろ、時間は4次元(持続)の反射物として生じてくる去勢された精神のようなものであって、それによって生じる鏡像世界の中に人間という場を作り出す働きを担っている。ハイデガー風に言うなら、時間は企投であり、それによって物の外へと被投された存在が人間だということだ。
当然、この人間はそこから再度、持続としての物の内部に方向づけられている。それがハイデガーいうところの現存在としての人間ということになるのだろう。世界-内-存在としての人間(現存在)という表現も、このような存在のループの中に一つの位置を持つ人間、というイメージから来ているんだと思う。
ハイデガー哲学の初期の構成をケイブコンパスで見ると、下のような感じになる。ケイブコンパスの見方が分かっている人は、是非、ケイブコンパスの構成と、ハイデガーの思考を重ね合わせて見るといい。おそらく、その辺の解説書よりはハイデガーの思考がよく理解できるようになるんじゃなかろうか。
ケイブコンパスの内側の円で示したところ(元止揚)はモノに当たるので、すべてはモノの運動ということになる。このときのモノというのがハイデガーのいう”存在”だね。モノを単なる対象として見ている限り、存在は忘れ去られたままだっていうこと。それが「存在忘却」の意。
同時に、このケイブコンパス上のΨ1~10は核子(陽子・中性子)の構造にもなっているので、ヌーソロジーでは、素粒子知覚が存在を開示してくる、という話につながっている。ここがハイデガーとは違うところだね。ヌーソロジーでは存在の開示は民族の生起などといった話には行かず、自然そのものの中への侵入という話になっていく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, ハイデガー, ベルクソン