10月 24 2022
暗がりを照らし出す光を!
物を対象化しない意識。そこにフィシスとしての意識活動がある。生成とはそういうものだろう。この意識に同調していくためには、光がどのようにして生まれているのかを知る必要がある。というのも、光とは、物を対象化するために存在が送り出しているものだからだ。その意味で、人間は今もなお光の中で溺れている。
分かりやすく言うなら、光は「間」を欠いているものだということ。「間」は物の内部という解釈でいい。物理学的にはスピン1/2を知らない旋回性と呼んでいいただろう。その意味で、光には自己と他者を真につなぐことはできない。あえて比喩的に言うなら、”露わで、明晰なもの”には、人と人を結びつける力はないということだ。
論理的であること。科学的であること。理性的であること。それらはすべて光のロゴスの眷属であり、こうした明るさが一方的に世界を引っ張って行けば行くほど、人の心は暗くなり、人と人との距離はどんどん離れ、存在の詩は聞き取れなくなっていく。今という時代はそういう時代のように見える。
明るさが悪いと言っているのではない。暗がりを知れ、ということだ。現れている世界の裏には、それらすべての母胎となる暗がりがある。この暗がりを知らなければ、明るみの意味も分からない。この暗がりを照らす光になって初めて、光は自身の完全性を取り戻す。本来の存在の光とはそういうもの。
となれば、唱えるべき言葉はただ一つ。
光の中の光を逃れて、光の外の光あれ!!
10月 28 2022
反転はどのように開始されるのか―
ヌーソロジーがいう「付帯質」とは―
人間の意識は他者に見られている空間を土台にして存在世界をイメージしてしまっている。そして、その空間の中ですべてを概念化し、認識のネットワークを編み上げ知を体系化している。しかし、そこでの「見ている自分」も事後的に付帯されたものでしかない。このように「見られている世界」を土台とした世界認識のすべてが、ヌーソロジーが付帯質と呼んでいるものだ。そして、その中心に主人のようにして居座っているのが自我だと考えるといい。
では、付帯質を外すためには―
付帯質を外すためには、見ている空間自身に主体を感じとり、そこから世界を再構成していく思考を生み出していくことが必要になる。そこに本来の精神としての自己が出現してくるということだ。ヌーソロジーが”奥行き”を最重要視する理由もそこにある。
現状の確認―
科学的実在論のベースとなる素朴実在論。20世紀の存在論が壊しにかかったが、牙城は未だにビクともしていない。それどころか、この実在世界がもう一段階上にある実在世界のシミュレーションに過ぎないといったような、実在のマルチ構造へと世界観が逆走し出している。ヌーソロジーから見るならば、これは方向が逆。
一つの客観宇宙がまず外にあって、それを無数の主観が内から見ているという、この前提自体がマズい。実際には知覚されている宇宙が主観としてまずあって、それが無数に寄り集まって外の宇宙というイメージが作られていると考えないといけない。人間の意識は原因と結果が逆になっている。
これもまた、他者に見られるところに自我を養ってしまったが故の錯視による産物だ。本当の自己は、知覚世界そのものの中に浸透して生きている。見られる空間は後の4次元。見る空間は前の4次元。この4次元における二つの方向性が「私」を自我と自己という二つの存在に分裂させている。
こうした自分の二重の在り方に、多くの人がそろそろ気づいてもいい頃ではないか。後で皆んながつながる世界と、前で皆んながつながる世界との間には天と地の違いがある。後ろでつながる世界の中には自由はない。今世界を覆い始めているこの何とも言えぬ息苦しさは、後ろの帝国の完成の予兆のようなものだ。
哲学の言葉でいうなら、後は「実在」、前は「実存」となって理解されていると言っていい。文字通り、存在は「在」と「存」に引き裂かれているわけだ。この引き裂きは言葉の世界と知覚の世界の引き裂きでもある。この裂開を補修するには、まずは実存へと脱自し、「前」で皆んながつながる方向を見出すしか方法はない。
そのためにも、まずは、それぞれが「前」に自分を発見すること。そこからしか、世界の反転は生まれない。
前にあるものは対象ではない。前とは自分自身のことなのだよ―と。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: 付帯質