10月 13 2022
物理学とは本来、内在性の学問です
光の空間構造を考えると、光はそれ自身の中に持続を持ち合わせています。つまり、光は私たちに決して物の一面だけを見せているわけではないということです。光は対象全体を包み込んでいると同時に、また対象の周囲に空間を繰り広げてもいて、それを意識に保持させている、そのような存在です。
自己が見る光と、他者が見る光は、普通、同じものと考えられていますが、全くの別物だと考えた方がいいでしょう。物理学で電磁場と電磁ポテンシャルと呼ばれているものがそれらに当たります。光自身も双子として生きているということです。
意識が存在という差異を挟んで反復している、というのはドゥルーズという哲学者の考え方ですが、光自体がこうした差異と反復の産物です。
光はヌーソロジーでいう〈思形〉と〈感性〉の間を、物(元止揚)という差異を挟んで反復しています。つまり、言い換えるなら、物の外部での意識活動を支配しているのが光だということです。その意味で、時空の中を光が直進しているというよりも、光が人間に時空という意識を与えていると言った方が妥当です。
光は物理学的には磁場の振動と電場の振動を併せ持っています。磁場とは感性空間の対化です。感性空間とは知覚空間のことで、これは持続に方向を持っています。物理学の実験で、粒子に外部から磁場を与えたとき、スピンがその磁場と同じ方向に向きを揃えようとするのもそのためでしょう。 このときのスピンが、人間の意識における内的持続の位置にあたります。
一方、電場とは思形空間の対化です。これは、〈人間の内面〉としての時空の意味とほとんど同じです。対化とは自己と他者、それぞれが意識している時空という意味です。これらは電場のプラスとマイナスのように互いに反転しています。
ゴタゴタと小難しいことを話していますが、何が言いたいのかというと、物理現象は外にあるものではないということですね。そもそも外などどこにもないということ。すべてが内で起こっているということです。いや、内が起こしている。
その意味で、物理学は本来、内在性の学問だと考えないといけません。観測者を持続として空間の中に参与させれば、当然、現在の物理学にもそのような知的変容が起こってくるはずです。
まとめておきましょう。
電磁場とは繰り広げにおける内包性を挟んでの意識の反復。つまりは、人間の意識場である。存在における終わりと始まりが混交している場とも言える。光とは有機体。有機体とはカタチのない精神-OCOT情報
OCOTの言葉で補足しておくなら、存在は”カタチ”の中で活動しています。それが、存在の外としての光の場では物質として現れるということです。その原初の鋳型が、量子物理の中に見られるSU(2)で示される空間構造に現れています。
二つ(自己側と他者側)のSU(2)が混じり合うとき、存在の母胎が顔を表してきます。それがヌーソロジーが「人間の元止揚」と呼んでいるものだと考えてください。
人間を存在の中へと溶け込ませていく思考を作らないといけません。存在の開き(アレーテイア=真理)はそのようにしてやってきます。
10月 17 2022
もっとダイナミックな思考を持とう!!
私たちは経験的なものを通して遠い過去をもイメージする。たとえば、人間がいなかった頃の世界を、私たちは人間の経験的意識を通して想像してしまう。しかし、それはあくまでも意識経験の結果を通した描像であって、人間以前の風景にはほど遠い。その意味で、ビッグバン宇宙や進化論などいった科学的世界観が作り出した過去の物語は虚構のイマージュで覆い尽くされている。
このことはベルクソンが言う「実在性と可能性」と「現実性と潜在性」の関係によく似ている。可能性の実在化の中で生命が進化してきたと考えることと、潜在性の現実化の中で生命が進化してきたと考えることはまったく違うものだ。前者には差異はなく、後者には差異がある。単なる生物化学の地平では、この差異は見えない。
この差異は時間的には持続の中で、空間的には奥行きの中で活動している。持続と直線的時間という時間の二つのタイプと、奥行きと幅という空間の二つのタイプ、これらが互いにいかに根源的な相補性であるか、私たちはもっと知る必要がある。量子力学に登場する複素平面が表現している実軸と虚軸とは、後者の相補性の数学的表現である。
この幅と奥行きとの差異は、同時に、空間に露出した自己と他者の存在論的差異のことでもあるだろう。自己が奥行きを持つ者としてこうして出現しているということは、自己とは実在に対する差異を持つ存在だということだ。そして、自己はこの差異の中に潜む潜在性を現実化していく力を持っている。
自己が実在に対する差異だということは、自己は時空からハミ出ている存在だということだ。まずはこのことに気づくことが、霊的個体化の世界への入口となる。
知覚・記憶・クオリア等、持続ベースの意識と、言語・記録・数量計算等、延長ベースの意識の場を明確に区別して考えよう。前者はヌーソロジーでいう人間の外面、後者は人間の内面の産物である。
自己存在のそのハミ出しの領域が物理学では複素空間として表現されているのだと考えるといい。〈わたし〉に最も身近なはずの自分の精神の姿が時空上では素粒子として記述されているということ。そして、多くの人がその難解な表現形式のために自己自身を敬遠してしまっているということ。それが今現在、人類に起きていることだ。これは、ある意味、悲劇だ。
物理学では複素空間から時空が生まれていると考えることができる。これは、ベルクソン風に言うなら、潜在的なものから現実化が生じていることを意味している。つまり、時空・物質という私たちが実在的と考えているものも、本当は精神の一つの表現として現実化しているに過ぎない。実在とは現実化されたもののごく一部に過ぎないのだ。
少し考えればすぐに分かる。実在には瞬間しかない-このことを今一度、自らの感覚に叩き込まないといけない。実在をあたかも一つの絵巻物のようにして見せているのは、潜在性として生きている私たちの精神の方なのである。
デカルトの「我思うゆえに、我あり」の〈ある我〉と〈思う我〉の違いも、この実在としての”我”と、潜在的な領域から実在を生み出した”我”との違いに由来している。いわゆる非本来的自己と本来的自己の違いだ。つまり、自己は差異を挟んで上位と下位に分裂したところに自己のシステムを作っているということ。これも、まもなく多くの人に分かってくるだろう。
脳をいくら調べても、自己の由来は決して見えてはこない。自己の生成は宇宙全体におけるトポロジー運動の産出物のようなものであり、局所的な電気信号の産物などではないということだ。宇宙全体を一気に回転させているこのような機構が素粒子だと考えないとダメだ。極大は極小に射影されているのである。
とにかく、ここで言いたかったことは、私たちは自分が考えている以上に、はるかに巨大な存在だということ。近代理性の思考に変に影響を受けることなく、自由にのびのびと思考の羽を広げよう。
私たちは飛べるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: デカルト, ベルクソン, 素粒子, 複素平面, 量子力学