11月 25 2022
客観空間と主観空間の奥に潜むもの
瞬間と持続。時間の成り立つ要素をあえて二つに分けろと言われたなら、僕は迷わずこの両者を挙げる。客観空間としての時空には瞬間という点時刻があり、主観空間には奥行きの名において持続がある。そう考えるのがヌーソロジーだ。
客観空間には物質があり、主観空間には精神がある―と言い換えてもいいだろう。私たちはこの二つの空間に跨って生きていて、意識は両者の間で揺らいでいる。ただ、いかんせん、私たちの常識は客観空間を常に優先させ、主観空間はそれに従属するものでしかない。精神は軽んじられているということ。
主観空間が客観空間に従属している限り、それは知覚空間としてしか現れることはない。眼差しの中に延長の残り香が混じってしまい、物はどうしても対象にしか見えず、物の即自としての奥行きが意識に立ち上がってくることはない。エポケーが不十分なのだ。フッサールも終生そうだった。
知覚空間に対して、持続は「私がいる」という感覚を意識に与えてくる。そして、その「私がいる」という感覚が働いているからこそ、客観空間に「物がある」という感覚が芽生えている。問題は、いかにして「いる」場所から「ある」場所へと意識は遷移したのかということ。
これは「いる」と「ある」の間で揺らいでいる意識には永遠に解けない謎だ。現象学は果敢にもこの謎解きに挑んだのだが、「いる」感覚を引きずったまま、逆方向から「ある」の世界へと遡行しようとしたために、結局は迷路に入ったまま、そこから出られないでいる。
いつも言ってるように、現象学には「なる=存在(生成)」の位相がないのである。
それを最初っから見抜いていたのがハイデガーで、ハイデガーはこの隠された生成の場に「時間性」を見ていた。生成としての時間性。人間の場合、この生成の位相は「何事かを為す」という行為の場として働いている。私たちが何事かを為すことは、自然が何物かを成すということに準じているということだ。
こうなると、時間は私たちが、その内部で生きている一つの場所性というよりも、自分自身の生と不可分な構造を持った、まさに自己自身の精神の有り様として感じ取れるようになってくる。主観空間(持続)から客観空間(瞬間)への超越論的な遡行も、このような時間感覚抜きには起こり得ないだろう。
ハイデガーはこうした時間性を有限なものとしたけど、ヌーソロジーの場合はこの時間性の構造をそのまま素粒子と接続させて、意識は無限の時間性へと出ることができると考える。つまり、”何事かを為す領域”から”何物かを成す領域”、自然の生成領域へと赴くことができると考える。
おそらく、それ以外に自然が今こうしてあることに根拠を見つける術はないだろう。
11月 28 2022
素粒子とアリアドネの糸
facebookで以前から拝見していて面白い人だなぁと思っている市田良夫さん。ありがたいことに、その市田さんがヌーソロジーにも関心を持ってくれ、Twitterにレスポンスがあった。
市田さんは、量子力学など理系の知識にも精通されている方だけど、一方で仏教やヨガなど、東洋の叡智にもお詳しい。レスをしているうち”外の思考(フーコー )”という言葉が頭に浮かび、そのままつらつらと、この”外の思考”の在り方についてつぶやいた。この”外の思考”というのが、ヌースのことでもあるんだけどね。
以下、そのつぶやき。
空間は持続と延長という二つの性からなっている。今の私たちは延長でしか空間を見ることができず、持続としての空間を無視している。
「人間の意識は幅で空間を見ているだけで、奥行きを見ていない」と言ってるのも、その意味だ。
奥行きは持続のことでもあるので、これは自己の根底に息づいている主体自身と言っていいものだ。Sに「 / 」。ハイデガー―ラカン由来の消された存在、消された主体の意味がここにある。
幅で支配された空間にとって、奥行きは差異である。いや、より正確に言うなら、幅が先行する空間知覚と奥行きが先行する空間知覚の間を繋ぐ差異として奥行きは働いている。もちろん、私たちの場合、奥行きが先行する空間知覚は完全に無意識化している。
この差異を端的に表現してるのが位置と運動量の交換関係px-xp=i ħだと考えると面白い。x=幅で、p=奥行きだ。この「 i (虚数単位)」が文字通り「 I =アイ」として失われた主体の数学的表現となっているわけだ。今の私たちは幅が先行してxp-px= -i ħとなり「 i 」が負の方向を向いて、他者化している。
目の前に実数直線(幅)を見るとき、奥行きはどこにあるのか。少し考えれば、それはすぐにわかる。原点として無意識化している。この奥行きが意識化されれば、幅は逆に奥行きに従属し、空間は虚数軸が作る点次元の方へと位置を移動する。そこに複素空間としての内包空間が息づいている。
ヌーソロジーが「私たちは物の中にいる」とアジテートするのも、こうした内包の場へと意識の位置を移動させたいからだ。この認識が生まれれば、見えている世界そのものが物の内部へと丸ごとワープする。つまり、物の外部にいると同時に物の内部にいるという例のバイスペイシャルな感覚が生み出される。
外部/内部という二項対立の外にある思考、つまり”外の思考”は、このようなバイスペイシャルな空間思考として到来してくる。
そのような”外の思考”に憑依された者にとって、現代物理学が見出した素粒子の構造は、人間という迷宮から出ていくためのアリアドネの糸に見えてくる。
さて、市田さんだけどYoutubeも始められている。本当に博識で、ユニークな方。話もとてもわかりやすい。第一回目のタイトルが「マルチョンとは何か」。きてるよね、ホント。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ハイデガー, フーコー, ラカン, 素粒子