6月 29 2009
空間を哲学する——対話編その1
●男と女が潜む空間
藤本 男・男が『太陽の子』で精神、女・女が『地球の子』で物質、そして男・女が『月の子』で意識。これってヌーソロジー的に言ってどのような意味があるんですか?
半田 空間には男性的な性格を持った空間と女性的な性格を持った空間という二つの区分ががあるということだよ。そして、面白いことに空間が持ったこの性差は自己と他者の間では全く逆の構成を取っている。それによって、自己-他者が絡み合った空間では、必然的に、男・男、女・女、男・女、という三種類の力の流れを持った別々の回路が生み出されてくるんだよね。空間に内在しているこうした性差に僕らの意識はまだはっきりと気づいていない。それに気づき出すと、意識というものがこの空間に内在している性差が生み出す差異(力)の流れによって生み出されているものであるということが見えてくるんだ。
藤本 差異の流れ?
半田 違いがあるからその違いを埋めようと力の流れが発生しているってことだね。
藤本 気圧の差によってその間に風が吹くみたいな。。
半田 うん、そうだね。
藤本 確か『シリウス革命』でも書かれていましたね。性愛は必ずしも男・女の間で生まれているものではないって。
半田 もちろんだよ。ホモセクシャルもヘテロセクシャルもどちらもあり得る。宇宙的摂理からすればホモが異常なんてことは決してない。僕はホモじゃないけど、ホモセクシャルな性愛関係は決して否定されるべきものじゃない。
藤本 僕も女大好き派ですけどね。へへ。でも、男・男、女・女といったホモセクシャルな結合というのは何か深い意味があるんですか?
半田 うん、ある。さっきも言ったように、これは宇宙のエネルギー流動が単に(+,−)といった二値的な関係で動いているのではなく、(+,-,+,-)という四値をベースとして動いているために必然的に形作られる性関係なんだよ。具体的にいうと、[男・男]は精神の対化の結合を意味し、それは純粋な理性の世界を形作ってくる。一方、[女・女]は男・男の結合に反映されて付帯的に出現してくる空間でこれが物質世界のことを意味している。ヘテロ結合である[男・女(女・男)]は物質と精神との間を取り結ぶいわば中間の媒介領域としての聖霊が活動する中性領域のようなものだね。アリストファネスが語った「愛の起源」の寓話は、こうしたそれぞれのセクシャリティーの結合の在り方が太陽、地球、月という三つの天体の関係と深いつながりを持っていることを示唆している。
藤本 半田さんの言う空間に内在する性差というのは、ヌーソロジーがいつも内面とか外面とか呼んでいる幾何学的概念のことですか?
半田 うん、そう。簡単に言っちゃうと「人間の内面」というのが女、「人間の外面」というのが男。働きとしては内面が付帯質で、外面が精神だね。さらに付け加えると、外面から内面に向かうのが男のリビドー(欲動)、逆に内面から外面に向かうのが女のリビドー(欲動)だということになるね。
藤本 外面から内面が男のリビドー?内面から外面が女のリビドー?リビドーって?
半田 無意識の流れのようなものと思えばいいよ。無意識はある構造の中を流動している。これは僕がいつも使っているケイブコンパスの図で説明した方が分かり易いだろうね(下図1)。外面から内面というのはケイブコンパスでいう思形(=ψ9)を指し、内面から外面というのは感性(=ψ10)のことを指してる。ブルーの矢印が外面から内面に向かって、反対にレッドの矢印が内面から外面に向かっているでしょ。フロイト流に言えば、ブルーの流れが現実原則で、レッドの流れが快感原則だ。
藤本 図式だけではよく分からないので、人間の外面と内面を一言で簡単に説明していただけませんか?
半田 内在と外在、もしくは主体世界と客体世界という言い方ができるかな。いずれにしろどちらも意識の在り方の違いによって生まれているものだということ。外在が絶対的な客観世界として存在してそこで意識が生まれているのではなく、外在も意識の在り方の一つにすぎないということだ。
藤本 ということは、上に示されたケイブコンパスの図を参照して言えば、男のリビドーが外在世界の認識の方を作り出し、女のリビドーが内在世界の認識を作り出しているということですか?
半田 そうだね。悟性的なものと感性的もの。思考的なものと感情的なものの関係と言いい変えてもいいよ。神智学-人智学の言葉で言えばメンタル体的なものとアストラル体的なもの関係と言っていいかな。
藤本 男=悟性、女=感性。。何かフェミニストから殴り込みをかけられそうですが。。
半田 はは。美人だったら歓迎します。ユングのアニマとアニムスではないけれど、人間はこうした男なるものと女なるものの両性からなっているということを言いたいのであって、決して即物的に男と女のことを言ってるわけではないよ。
藤本 そうですよね、今までそうした言語的な観念としてしか言い表せなかったものをヌーソロジーでは空間の構造として幾何学的に描像しようとしているんでしたよね。
半田 その通りだね。そのような意識の類型の分別を空間のカタチとして知性の中に再表現しようと思っているんだ。ここで表現されるカタチこそがヌーソロジーがイデアと呼んでいるものだね。もっと卑近な言い方をすれば霊的世界を天上からこの地上に引きずり下ろして、天上と地上の区別を消すってことかな。
藤本 そのカタチを表現するために重要な役割を果たしているのが身体空間だということなんですよね。
半田 うん。科学のように数式や図式上の理解でもなく、宗教のような情緒的理解でもない。身体を通じて空間を見たときの構造的な理解だ。ヌーソロジーは意識変革のためにもっとも重要なことは、従来の空間に対する3次元イメージに大きな変更を加えることが何よりも重要なことだと考えているんだ。空間認識が変わらなければ意識が変わったとはとても言えない、ということだね。
藤本 では、人間の外面と内面を身体を中心にイメージした場合、どのようなものとして出現してくるのでしょうか。
半田 最も分かり易い言い方をすれば、身体の「前」と「後」と言っていいと思うよ。「前」が人間の外面。「後」が人間の内面。
藤本 う〜む。ということは、「人間の外面」というのは主体や内在が存在しているところだと言われてましたから、僕らが主体や心の世界と呼んでいるものは身体の「前」のことで、反対に客体や外の世界と呼んでいるものは身体の「後」のことということになりますね。
半田 だね。その通りだよ。そういうふうに主体や客体概念を変更していかなくてはならないということだね。なぜ、そういう変更が必要なのかを具体的に語っていくのがヌーソロジーの入口の醍醐味でもあるんだよね。とにかく最初のうちは「えっ!!」「うそでしょ。」「まさか!!」のオンパレードになると思うけど、そのうちいろいろなことがビシバシ繋がってきて深く合点が行き出すと思うよ。
藤本 う〜ん、まだまだわっからないなぁ。。。。でも、なんで身体の「後」側が内面で、「前」側が外面なんでしょうか?そのときの内とか外とかというのは何を基準に言っているんですか?
半田 実際に目に見えているか、見えていないかだね。見えている世界のことを外面と呼び、見えていない世界をを内面と呼んでいる。ただそれだけのことだよ。たとえばこうしてタバコを手にとったとき、タバコのパッケージは見えているよね。これはパッケージの「外面」だ。「外面」だから見えている。そう考えよう。だけど、バッケージが印刷されている紙の裏面、つまり内面側は見えない。同様にパッケージの裏側も見えないよね。だから、それも内面だ。それと同じで、人間にとって身体の前方向は常に見えている。でも、背後側は常に見えてはいない。だから、前者を人間の外面と呼んで、後者を人間の内面と呼んでいるんだ。
藤本 外面は見える世界。内面は見えない世界ということですね。確かに見えている世界は常に身体の前側であって後側の世界は見えてはいません。でも、なぜ、それを「面」と呼んでいるのかが分かりません。内面や外面に付いている「面」という呼び方があまりしっくりとこないのですが。だって身体の前方向も後方向もそれなりに奥行きを持っているでしょ。僕らは普通、面というと、テーブルの表面のように平べったい広がりのようなものをイメージしてしまいますから。
半田 そうだね。だから、ヌーソロジーの思考空間に入るためには、普段僕らが「前」や「後」に対して抱いている広がり(奥行き)の感覚を一度幼児に戻った感覚になって頭から消し去ってもらわなきゃいけないんだよね。純粋知覚というやつ。幼児の意識にはどちらが遠いとか近いとかそんな遠近感覚はまだ生まれていないよね。「前」はそれこそペッタンコに潰されて”面的”な空間として見えている。そうした認識に一度リセットする必要があるんだ。数学的に言えば目の前の空間を2次元射影空間として考えるということなんだけど。。
藤本 そうした見方をすることによって何が分かるというのですか?何か有意義な発見でもできるというのでしょうか?世界をより複雑に見て、返って頭を混乱させるようにも感じてしまうのですが。
半田 オッカムのカミソリかい?はは、今の段階ではそうかもしれないね。しかし、ヌーソロジーの思考に慣れてくると、世界をこれほど単純化して見る思考法は他にはまず存在しないということが分かってくるはずだよ。ヌーソロジーはあるがままに世界を見ているだけであって、今の人間型ゲシュタルトの方があるがままに世界を見れなくなっているから、逆にあるがままに世界を見ることの方を難しく感じてしまっているだけなんだよね。禅師が言うように、一度、君のそのお茶碗の中を空っぽにする必要があるね。そして、一からヌーソロジーの概念で自分の認識の成り立ちというものを再構成していってみるといいよ。するとヌーソロジーがなぜ、身体における「前」と「後」の差異を重要視しているかが自然と理解できてくる。保証するよ。
藤本 そこまで言われるなら一応、半田さんを信用しましょう。続けて下さい。
半田 OK。じゃあ、射影空間のところから続けるよ。射影空間というのはとりあえず視野空間を面としてみたときのことを言ってると思えばいい。僕がいつも使う「モノを中央に挟んで向かい合う自己と他者」という思考モデルがあるよね。
藤本 ええ、NC(ヌースコンストラクション)のもとになっている自己-他者とモノの配置図のことですね。
半田 そう。身体の「前」をもし2次元の射影空間(射影平面)として見ると、自己と他者が向かい合った状態では、それぞれに見えている射影平面は互いに裏返しの関係になっているのが予想されるよね。つまり、射影の方向が正反対なので向かい合う自他がそれぞれに形作っている視野空間のカタチは射影平面のオモテとウラという言い方ができるわけだ。
藤本 確かにそうですね。こうして今、僕と半田さんが向かい合っているとして、僕が見ている視野面は半田さんの背後側で構成されており、同様におそらく半田さんの視野面は僕の背後側で構成されている。。これが半田さんのおっしゃる「自己と他者では人間の外面と内面が逆に構成されている」ということの意味ですよね。
半田 うん、その通り。下にイメージ図を添えておくね。
藤本 でも、だからなんだというのでしょう?当たり前のことのように聞こえますが。
半田 確かに当たり前だ。でもね、実は現在僕らが一般に受け入れている時空概念ではこの当たり前のことがうまく説明できないんだよ。
藤本 えっ?どうしてですか?
半田 時空というのは3次元の空間+1次元の時間で4次元時空としているわけだけど、空間だけ取ってみればあくまでも3次元だよね。実は射影空間を裏返しにできるのは4次元空間においてであって、3次元空間じゃ1つ次元が足りないんだ。
藤本 えっ?それってどういうことですか?
半田 たとえば、3次元空間の中に僕と藤本さんがいる、とする。普通は、僕と藤本さんの身体が位置している場所を3次元空間の中で互いに入れ替えれば僕の視野空間と藤本さんの視野空間を入れ換えることができるように思っているでしょ。
藤本 ええ。半田さんの場所に僕が移動すれば、今、半田さんが見ている風景を今度は僕が見るようになるってことですよね。
半田 うん。でも、時空という枠組の中に僕と藤本さんの身体をモノのように位置させてしまうとそうはならないんだ。つまり、藤本さんがどのように移動しようと僕の見ている風景を藤本さんは絶対に見ることができないし、逆もまたしかり。。
藤本 ええ〜?どうして?
半田 僕と藤本さんの物質的身体の位置を互いに入れ替えるというのは、幾何学的に言えば単なる2次元の球面上での回転での位置の入れ替えであって、このような回転移動では視野空間を構成している射影平面を入れ換えることはできないんだよね。というのも、射影平面というのは幾何学的に捩じれを持っているから。ちょうどメビウスの帯みたいにね。だから、この入れ替えを可能にするような回転を起こすには3次元じゃ空間の次元が一つ足りないんだ。4次元空間じゃないと無理。
藤本 だとすると、それは一大事ですね。時空の中では誰も外界を共通のものとして見ることはできない、客観世界なんてものはどこにもない、ってことになってしまう。
半田 そう、見えている世界は常に主観であって、そこに客体などはないってことさ。
藤本 ということは見えている世界自体を自分と呼んでも何も矛盾はないことになりますね。
半田 ああ、そうだよ。世界は4次元時空として構成されていて、それを見る機能を持った物質的身体がその時空内部に存在させられていて、そこから人間は世界を観察している——これが科学を始めとする一般的な世界知覚に対するイメージだと思うんだけど、単に目の前の空間を射影空間と解釈しただけで、現在の僕らのモノの考え方には赤信号が点滅してしまう。科学が意識に対してメスを入れることができないのも、外界と内界という認識が拠って立つ位置の取り方が極めて曖昧というか、事実とはほど遠い概念の中でステレオタイプ化されているからなんだ。その曖昧さが、意識や精神といった概念に対するイマジネーションをより貧困なものにしている。
藤本 つまり、時空の中に物質があって、その物質が複雑に構成された結果として人間の肉体があって、その複雑さの度合いから意識というものが発生し、その意識によって人間は肉体から外部の世界を眺め、自省的意識を持つことができるようになったというような話は人間が勝手にデッチ上げた作り話だということですか。
半田 まぁ、そこまでは言わないけど、どうも真実を指し示してはいないということだね。まず時空があって人間がそこに生まれて来たのではなくて、まず最初に人間がいてその後で時空が概念として生まれて来たとする方が正しいと思うよ。
藤本 時空が概念として。。
半田 そう、時空というのは実在じゃないってことだ。あくまでも概念によって構成されているものにすぎない。数学では(非)ユークリッド空間よりも射影空間の方がより原型的なものだと考えられているんだ。つまり、射影空間からユークリッド空間が構成されてくるということ。このことが何を言っているかわかるかい?
藤本 ………?
半田 つまり、射影空間がまず先に与えられないとユークリッド的な空間は生まれてこないということ。このことを人間の現実に当てはめれば、幼児期は人間は空間を射影空間として経験している。そして、その空間をもとにして自分中心の空間を作り出して行く。この中心は言うなれば無限遠平面なんだけど、そこに他者が介入し、自分の身体性や言葉を獲得していくことによって、この無限遠平面が排除されてしまう。数学的にはこの排除によって計量が可能となりユークリッド空間が成立してくる。何が言いたいかというと時空は「世界を観察している自分」を消滅させるという脱中心化によって初めて生じてくる世界だということなんだ。
藤本 つまり、自分という中心をしっかりと持っている赤ちゃんや幼児にとっては時空は存在していないということですか?
半田 うん、存在していない、というか実際に認識として成立させてはいないよね。少なくとも僕は覚えていない(笑)。時空というものは人間の意識発達によって後天的に構成された概念の一つにすぎないということだよ。その概念に合わせて僕らがすべての事象を整理しているだけ。カントという哲学者は時間・空間はアプリオリ(経験に先立った)な直観形式だと言って、世界を何とか主観の方向にもってこようとしたのだけど、実はこれではまだデカルトが論じた客観としての延長概念の抗力を消し去るには中途半端で、時間や空間はあくまでもアプリオリというよりもむしろアポステリオリ(経験に準ずる)な直観の形式なんだよね。問題の本質は、どうしてアポステリオリにそうした直観が人間の意識に芽生えてくるのかというところにあるのであって、そこで暗躍している無意識の仕組みこそがアプリオリなものなんだよね。だから、ヌーソロジーはその無意識の中にあるより原型的な空間に立ち返って、時空の発生の契機について考え、かつ、そこを足場として精神と物質の関係性についても考え直そうとしているんだ。
藤本 その原型的空間の立ち上がりとして、人間の内面と外面という概念がどうしても必要になるということなんですね。
半田 そう。絶対に必要不可欠なものだと思う。
藤本 そしてそれが身体の「前」と「後」だと。
半田 うん。
藤本 シンプルですよね。
半田 と思うんだけどねぇ〜(笑)。
藤本 でも何で「後」が女で、「前」が男なんでしょ?
つづく。
7月 3 2009
空間を哲学する——対話編その3
●記憶が存在する場所
半田 視覚的にはモノの存在は常に前において確認されているのだけれど、問題はモノが目の前に見える、モノが目の前にある、というのはどういうことかを考えなくちゃならない。
藤本 はっ?一体何を言ってるんですか?
半田 モノがあるという認識がどうして意識に可能になっているのかってことだよ。
藤本 それはさっき言われましたよね。言葉じゃないんですか。モノが名を持つことによって認識されているということじゃないんですか?
半田 悟性的にはそうだね。でも、感性的には違う。言葉を知らない赤ん坊でもおそらくモノの存在を直観しているはずだ。その証拠に、母親が笑顔を作ると赤ん坊も笑顔で応えるだろ。そこに何かが存在しているという認識の前提に直観があり、直観が意識に成り立つための最も重要な要素は記憶じゃないかと思うんだ。
藤本 「ある」という認識は記憶がもとになっているということですか………。
半田 うん。知覚自体は言ってみれば現在の切り取りでしかないよね。今、この灰皿を見たとしても1秒前の灰皿はもうそこには存在していない。1分前の灰皿や1時間前の灰皿について言えば尚更だ。それらはいわゆる過去に飛び去ってしまっていて、今、現在、この瞬間にはもうそこにはなくなってしまっている。だから知覚だけでは灰皿が「ある」という持続状態を意識することはできない。つまり、灰皿はあり続けているからあるのであって、この「あり続けている」という認識には当然のことながら知覚されたものが記憶として継続してなくちゃならない。
藤本 なるほど、面白いですね。普通、僕らはモノは自分の意識とは無関係に外の世界にあるものだと思っている。人間がいなくたって外の世界は太古から存在していたに違いないと考えていますよね。このような捉え方だと記憶はモノがあるということに対して従属的な関係を結んでいることになります。とにかく外の世界は人間の意識とは無関係にあり続けていて、そのあり続けている世界を意識で想起したときの知覚が「記憶」と呼ばれている。こういう考え方では、世界があり続けていることと記憶は全く別物になってしまう。でも、ヌーソロジーでは人間が持った記憶自体が「ある」ということを支えている力だと言ってるわけですね。
半田 うん、全くその通りだね。もっともこれはヌーソロジーというよりもベルクソンという哲学者が言っていることなんだけどね。つまり、何が言いたいのかというと、物質が存在しているという認識自体が実は記憶だということなんだ。物質が無条件に外在世界にあって、それを人間が知覚してその記憶を所持しているのではなくて、物質があるという認識が意識に起きていること自体が実は記憶だということなんだよ。いやもっといっちゃうと物質自体が記憶と言ってもいいね。記憶というのは僕らの一般の感覚では内在の働きだよね。だからベルクソンはこうした内在の息がかった物質のことを外にあるとされる従来の物質概念とは区別してイマージュと呼んでいるんだ。だから、ベルクソンにとってみれば宇宙が存在するといったとき、それはイマージュの総体を意味している。
藤本 わぁ、なんかそう聞いただけで、宇宙自体が自分自身みたいな気がしてきますね。世界があるということ自体が一気に自分の内なる広がりのような気分になってきます(笑)。
半田 だね(笑)。ベルクソンのねらいもそこにあったと思うよ。このイマージュという概念は19世紀までの哲学が引きずっていた旧態依然とした主体と客体の二項対立を解消するためのベルクソンなりのキーコンセプトなんだ。
藤本 ん~、確かにそう考えると主体と客体を分離して考えることなんてできなくなりますね。概念にパワーがあるなあ。天才的閃きですね。
半田 うん。すごいよね。
藤本 で、そのベルクソンのいうイマージュというものがヌーソロジーとどう関係してくるのでしょう?
半田 イマージュという概念はそれまで主体サイドの働きと考えられていた記憶という作用を客体サイドの物質に重ね合わせることによって、主体の居所を対象側に移設しようとする試みだと言えるんだけど、ヌーソロジーは単に対象だけではなく対象の背景空間についても考えないと、このベルクソンのいうイマージュという概念に論理的な整合性を持たせることは難しいのではないかと考えてるんだ。実際、ベルクソン哲学のことを神秘主義的だと言って批判する人たちも多くいるしね。
藤本 対象の背景空間についても考える?
半田 そう。つまり、僕がさっきから「前」と呼んでいるやつだね。対象の存在は確かに「前」で確認されている。でも、その「前」は対象だけじゃなく対象の背景空間も含んで初めて「前」と呼べるってことさ。
藤本 半田さんがいつも言ってるモノは図と地の関係によってしか認識できないというゲシュタルト心理学の内容のことですか?
半田 もちろんその意味もあるけど、ここでいうモノの背景空間というのは「前」という方向が持った空間の奥行きについて言ってると思ってほしいんだ。
藤本 奥行き………。
半田 一言で言えば、「奥行きこそがイマージュの源泉である」ってことかな。
藤本 奥行き………がイマージュの源泉?
半田 うん。さっきも言ったように目の前にモノがあるという認識はベルクソンの言い方を借りれば必ず幾ばくかの時間の経過を含んでいるということになるんだけど、この時間の経過を漠然と記憶や持続という言葉で観念的に説明するのではなく、その時間の経過がどこにあるのかを知覚を通して論理的に探索してみると、どうしてもモノの背後にある奥行きの中にあるんじゃないかって思えてしまうんだよね。
藤本 時間の経過がモノの背後としての奥行きにあるってどういうことですか?
半田 藤本さんはアインシュタインの相対性理論に出てくる時空という概念は知っているよね。
藤本 ええ、多少は。時間と空間は別物ではなく4次元の連続体として一体になっているってやつでしょ。
半田 ご名答。僕らはアインシュタインが現れてもう百年以上も経つというのに、空間や時間に対する見方は実際のところ相変わらずニュートン的で、空間は3次元で、それとは別に時間が刻一刻と流れていると考えている。つまり、時空一体として空間や時間を見ることにまだ不慣れなんだよね。しかし、時空としてこの空間の広がりを見れば、それは遠くに行けば行くほど過去になっているということになる。
藤本 ええ、半田さんも『人類が神を見る日』で書かれていましたよね。視覚的な情報は光で運ばれてくるわけですから、遠方から情報が届くまでに時間を要するということですよね。たがら、100万光年彼方に見えるアンドロメダ星雲は今現在のアンドロメダ星雲ではなく100万年前の姿になっている。
半田 そうだね。科学者たちがブルーバックスなんかで一般人向けによくやる説明だよね。しかし、これは極めて重大な内容だと感じないかい。奥行きはそれが深まれば深まるほど過去となっているということ――つまり、このことは人間が前に見ている空間の中には過去から現在に至るまでの一切の時間の流れがぎつしり詰まっているということを言ってるのと同じだよね。
藤本 なるほど。科学者たちの言ってることを真に受ければ確かにそういうことになりますね。
半田 つまり、時空という概念を通して「前」を見た場合、奥行きは単なる空間としての3次元の一部ではなくて4次元になっているということなんだよね。
藤本 時間は4次元ですもんね。
半田 うん。このことは裏を返せば過去は空間的にはどんどん遠ざかっていっているものとして翻訳が可能だということなんだ。僕らの知覚との関係でいえば、たとえば今、目の前に灰皿があるとして、一秒前の灰皿という存在は現在の時点では30万km彼方の奥行きの中に遠ざかっているということになる。昨日の灰皿は同じく一光日(光が1日かかって進む距離)彼方の奥行きの中だ。
藤本 ………つまり、それが記憶だということですね。記憶は奥行きの中に畳み込まれていると。。
半田 そうだね。ベルクソンの考え方とアインシュタインの考え方を繋ぎ合わせるとどうしてもそういう推論が出てきてしまう。モノというのは記憶をも含んでモノとして存在していて、ベルクソンに言わせればその記憶というのは一般にいうような断片的な記憶のことではなく、常に在り続けているという持続感覚のことなんだ。その持続感覚は言い換えれば僕らが感じている時間の流れそのもののことだから、それは前の中に、つまり、奥行きの中にあると考えても論理的には矛盾はないよね。
藤本 なるほど。。だから、前が主体だというわけだ。。
半田 うん。まだまだ不明瞭なところはあるけれど、ヌーソロジーはそういう考え方をしていると思ってくれればいいよ。
藤本 ん〜、前が主体で、後が客体かあ。。ぐるっと体を回したときに、前だけで作られている球空間と後だけで作られている球空間の二つがあるってことなんですね。そして、僕らが普通、外の世界と呼んでいるのが後が集まってできている球空間で、こころの世界と呼んでいるのが前でできている球空間になっていると。。
半田 ああ、大まかにいいうとそれらが順に次元観察子のψ6とψ5と呼んでいるものになるね。
藤本 でも、なぜなんでしょ。そういう仕組みがこの空間にセットされているとしても、なぜ僕らは前を客体世界と感じ、むしろ後側を主体世界と感じているんでしょうかね。それってやっぱりさっき言われた言葉の力のせいでしょうか。言葉が後の空間にバラまかれることによって、その言葉の集まり自体を主体と感じているからなんでしょうか?
半田 そうだね。前が後側に鏡像を作っているんだよ。その意味で言えば、僕らが普段、外の世界と呼んでいるものは鏡の中の世界なのさ。さっきも言ったように想像的なものだよ。
藤本 それも『トランスフォーマー型ゲシュタルトプログラム』に書いてありましたよね。
半田 うん。この際だからしつこく説明しとくね。「わたし」にとっての後の世界というのはさっきも言ったように他者の前に当たる世界だよね。こうして僕と藤本さんが向かい合っているとして、藤本さんには僕の後の世界が見えているはずだ。いや、それだけじゃく、僕の前に見えている様々なモノの背後もおそらく見えているよね。それが僕にとっての「人間の内面」ということになるのだけど、それは何度も言うように僕には実際には見えていないわけだから、藤本さんが前に知覚しているものを僕が認識するためには僕は藤本さんが発する言葉でしか構成するしか方法がない。そして、そのとき同時に藤本さんが前に見ている世界の映像もイマジネーションによってコピーすることになる。つまり、藤本さんの視野空間に僕を含む僕の背後世界がどのように見えているかってね。これは僕にとっては僕の鏡像に等しい。
藤本 ええ。朝起きたとき洗面所に立って鏡を見ると自分の顔だけではなく背後世界も映し出されている。という話ですよね。それは他者の視野空間に映っている自分の像とほとんど同じものだと。
半田 うん。鏡映反転を起こしているわけだ。だから、言葉を他者から聞き取りながら習得して他者が見ている世界を言葉としてコピーし、そのイメージで世界を構成していくというのは、鏡像空間を作っていくことと同じ意味を持っているということになるんだ。
藤本 つまり、僕らが外在世界と呼んでいるものは言葉によって概念として構造化されていて、かつそれは鏡像空間の中に投げ込まれた鏡像的なイメージの集積にすぎないということですね。
半田 おそらくそうだね。だから、本当の主体である前は反転させられてしまって、その鏡像空間の中で自分の顔を主体として感じてしまうことになる。
藤本 半田さんが仮面(ペルソナ)と呼んでいるものですね。
半田 前の面が後の面に反転させられている。そしてそのときの後の面が集約させられたものが顔としての「面」だと考えるといいよ。
藤本 面白いですね。日本語でも英語でも面=顔、face=faceです。こりゃあ偶然の一致じゃないな。ほんとうの主体である前が後になってひっくり返っちゃうんですね。それと同時に前であったものに後が重なり、ほんとうの前は意識から消え去って、客体と呼ばれる世界になってしまう。。主体と客体の反転だ。
半田 ああ、前が無意識の中に沈んじゃうんだよ。フランスの哲学者や文学者たちは神秘思想の影響もあって人間という存在自体を性的な倒錯者だとよく言うんだけど、このひっくり返りもその倒錯の意味と考えていいかもしれないね。ヌーソロジーが4次元の反転と呼んでいるやつさ。おそらく持続としての時間もそのときに普通の時間に化けている。
藤本 普通の時間に化けているってのは?
半田 ベルクソンの言葉でいう「空間化された時間」というやつだね。イマージュとしてモノの背景空間の中に浸透していたはずの時間が鏡像的にヒックリ返されることによって単なる時計的な時間に置き換わってしまうとでもいうのかな。直線上に目盛りを打ったように解釈されてしまう時間のことだよ。
藤本 ?記憶における時間と通常の時計の時間は違うものだということですか?
半田 うん、全く質が違うものだと思うよ。
藤本 どういうふうに違うんでしょ?
半田 その違いを深く理解するにはベルクソンの本(『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』)を読んでもらうのが一番いいんだけど、ごくごく簡単に言うと、時計の時間は過去、現在、未来がすべて一様で均質的なものでしかないということなんだ。直線を引いて、中央にゼロ時刻を取り、左側に過去、右側に未来をそれぞれ方向づけ、直線上を現在という点時刻が流れて行くってイメージだよね。
藤本 物理学が使う時間軸みたいな考え方のことですね。
半田 うん。でもこれだと時間は単に空間の位置座標のようなものでしかなくなって、実際に僕らが感じ取っている時間とは程遠いものになってしまう。たとえば、現在というのは今、この瞬間のことを言うわけだけど、僕らの実際の生にとっては現在というのは必ず過去や未来を含んでいるよね。現在は過去の集積によって初めて現在となり得ているのだし、また、未来への希望や不安も抱えて初めて現在足り得ている。現在というのはこのように過去と未来の間に挟まれながら、それらを絶えず含んであるものだ。しかし、直線的な時間においては現在というのは、その直線上の単なる点時刻のことでしかない。点時刻の中には当然、その瞬間、刹那しか存在しておらず、過去や未来と有機的なつながりは何一つ持っていない。つまり、点が集まって線を作るという思考と同じで、瞬間瞬間の集まりのようなものとして時間の流れを想定しているわけだ。
藤本 そうですね。今、今、今という今の連続的な連鎖で時間が成り立っていると確かに思っています。
半田 しかし、そんな瞬間、瞬間なんてものは存在していないと考えた方がいいんじゃないかな。大森荘蔵という哲学者がうまい喩えをしていて僕も思わず笑ったんだけど、ハムの切り口をいくら集めたところでハムにはならないってことだね。それと同じで点時刻をいくら集めたところで時間の流れになることはない。それはせいぜい真の時間である持続に対する一つの参照の仕方にすぎず、単に整然と数字のラベルを貼付けて序列化しているだけってこと。ベルクソンが時計の時間のことを空間化された時間と呼ぶのはだいたいそんな内容かな。
藤本 でも、半田さんはさっき、奥行きの中に時間があると言われましたよね。そのときの時間も奥行きが深まれば深まるほど過去で、浅ければ浅いほど現在に近づくってことにはなりませんかね。なんだか空間化した時間のイメージに近い感じがしますけど。
半田 そうだね。奥行きに距離があるのならそうなるよね。でも奥行きに距離なんてないとしたらどうなる?
藤本 ………? 一応、奥行きというからには長さがあるような気がしますが。
半田 それは奥行きではなくて「幅」だと思うよ。奥行きを真横から見たことを想定して幅としてイメージしてしまっているんじゃないかい。僕が奥行きと言っているのは身体における絶対的前方向のことだよ。自分がそれを真横から見ることができるのであれば奥行きは幅に変換されて長さを持つかもしれないけど、こと身体空間においては奥行きはあくまでも奥行きであってそこには長さは存在していないよね。つまり、実際の知覚では奥行きというものは1点で同一視されて潰されてしまっている。だから、その厚みは無限に小さいものだと言わなくちゃならない。
藤本 観察の位置を横に出しちゃいけないということですね。
半田 うん、現段階ではダメだ。それだと身体空間における左右が介入してきてることになる。
藤本 確かに前だけ見る限りではそこにある奥行きの方向は点に潰されていますね。ということは、記憶はその凝縮化された点の中にグチャグチャになって蓄えられているってことですか?
半田 おそらくね。そういう考え方もできるってことだよ。射影として潰されている奥行きの中に圧力のようなものが加わっているかどうかは分からないけど、とにかく点に潰されてしまっている奥行きの中にある時間は数直線上で示される時間のように整然と秩序立てられて並んではいないと思うな。それこそ実際の記憶そのもののが僕らの意識に示す在り方と同じように、それは重なり合ってランダムに蓄えられている感じがする。過去に遡れば遡るほど記憶が薄まるってこともないし、時計的な時間の順序で記憶が整然と並らんでいるってこともないだろ。
藤本 ええ。半年前と一年前の区別は記憶だけじゃ判別できないですね。カレンダーをあてがわないと。。
半田 うん。つまり、僕らの時間の観念というのは、それこそ外面の時間(記憶)と内面の時間(時計、カレンダーでの時間)という形で混淆的に作り出されているんだよ。その二つがあって初めて時間は意識化されている。だけど、僕らはこれら二つの時間の在り方をうまく分離することができず意識の中でごっちゃになっているんだ。それを明確に区別していくことがヌーソロジーが言っている人間の内面と外面の見極め作業のことだと言い換えてもいいかな。
藤本 男の時間と女の時間ですね。時計の時間が男のリビドーによる時間、記憶の時間が女のリビドーにおける時間。二つが合わさって初めて時間が存在している。。
半田 そういうことだね。時間もまた悟性と感性の共同作業によって生まれているものなんだよね。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: イマージュ, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ベルクソン, 人類が神を見る日, 内面と外面, 大森荘蔵, 対談, 言葉