4月 8 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その2
●〈見ること-見られること〉の相互反転
この作品の第一の特徴を一言でいうと「見られること」が表象されているという点である。通常の写実的な絵画は風景画にしろ、人物画にしろ、画家の視野上に映し出されている視像がそのままキャンパスに描き出されたものとなっている。つまり、「見ること」が絵画によって表象されているわけだ。そのとき絵画空間はそこに描かれた風景世界の中だけで完結している。言うなればそれは対象世界だけで閉じているとも言える。しかし、この『ラス・メニーナス』はいくつかの仕掛けを施すことによって「見ること」のみならず「見られること」をも表象し、かつ、「見ること」と「見られること」との間にある境界を無効にするような効果を醸し出している。
向かって画面左に大きなキャンパスがあり、そのすぐ右手に絵筆を執っている画家がいる。これがおそらくベラスケス自身だろう。彼は自分が描いている絵が正確にモデルと一致しているかどうかを確認するかのように首をわずかながら傾げながら、モデルらしき対象の方を見ている。その傍らにいる少女、そして道化師、その背後にいる召使い風の男もまた画家が描こうとしているモデルの方に視線を向けている。これら複数の視線の効果によって、鑑賞者には画家が単なる静物画を描いているのではなく、某かの人物をモデルにしているのではないかと思えてくる。そして、さらなる絵の細部に注意が向かうことによってその思惑を確信し、人物の正体までもが明らかになってくる。
それは部屋の奥まった位置、ちょうど少女の頭の上あたりにそのモデルとなる人物が映し出された鏡らしきものを発見するからだ——鏡の中には大人の男女のペアが仲睦まじく並んでいる様子が窺える。おそらく、この少女の父と母ではないのか。二人はこの館の主に違いない(実際、このペアは時のスペイン国王フェリペ4世とマリアーナ王妃とされている)――こうした連想によって鑑賞者は結果的に、この絵画のフレーム自体がモデルである夫妻どちらかの視野世界であることを知る。つまり、この作品においては描く者と描かれる者とのコンポジションが通常の写実画とは正反対の方向へ反転させられた形で表象されているのだ。
このコンポジションの反転において、キャンバスと鏡が果たしている役割には絶大なものがある。向かって左側に立ててあるキャンバスには画家の目に見えている情景がおそらく正確に描き写されていることだろう。そこにどのような情景が描かれているかは中央奥の鏡が保証してくれている。もし、鏡によるこの保証を絵画から取り除けば、この絵はある裕福な画家の一族を描いた肖像画とも受け取れないこともない。しかし、この絵画を支配している計算高い光学はそのような解釈を決して許さない。なぜなら、奥まったところに立つ壁には用意周到にも何点かの絵画がかけてあり、それらはすべて薄い暗がりの中に沈み込んでいるからだ。薄闇の中に沈殿したこれらの画との比較によって、壁の中央にかけられた男女の像を囲う額が肖像画などではなく、それ自身光を反射する鏡の枠であることが鑑賞者にはすぐに分かる。
画家は見るものであると同時に見られるものでもある。と同時に、モデルとなっている夫妻も見るものであると同時に見られるものである。こうして、互いの視線は合わせ鏡のように互いに互いを反照させ合い、その軌跡は〈含むー含まれる〉の関係を無限に反復させることになる。
ここに展開されている幾何学的関係はヌーソロジーではおなじみの交差円錐のモデル(下図参照)で表すことができるが、参考までに観察子での対応を示しておくことにしよう。
1、次元観察子ψ3……モデルとなっている人物の視野空間そのもの
2、次元観察子ψ4……夫妻像が映し出されている鏡の中の空間
3、次元観察子ψ*3……夫妻像が描かれていると想像される画家のキャンパスの画布
4、次元観察子ψ*4……この作品自身の構図に表されている遠近法。
反転のコンポジションがない場合、つまり一般的な写実画の場合、絵画は大方がψ3とψ*4を表象化していると言える。このときにいうψ3とは絵画の画布面そのものに対応しており、ψ*4の方はその面上に遠近法として与えられた奥行き表現に対応する。しかし、この絵画は、作品自体の中に画家の描くキャンパスと鏡を描くことによってψ3とψ*4の関係をそれぞれ反転させ、ψ4とψ*3の関係を絵画の中で表象させることに成功している。ここでいうψ4とは鏡に映し出されたモデルの顔およびその背後の空間に想定されている奥行きであり、ψ3はキャンパスに映し出されていると想像される画家自身が見ている視野である。モデルの立ち位置からは決して窺い知ることのできない画家の視野は鏡によって表象(代理)され、夫妻はこれによって自身の顔や背後を表象することが可能になる。
さて、この当たりまでならば僕らレベルの頭でもどうにか分析が可能だろう。しかし、この作品が表象化しているものは実はそれだけではない。フーコーはこれらに加えて、画面右奥に描かれている今まさに部屋から出て行かんとする男の視線やこの絵画の中を満たしている光、そらにはこの絵画を鑑賞している当事者についても鋭い分析を行っている。実はこの分析によって抽出されてくるものが表象のシステムの完成体と深く関係を持つものなのである
――つづく
4月 16 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その3
●前後からの光と左右からの光
この絵画の中を満たす光はどこから来ているのだろうか。フーコーは次のように書いている。
「絵は右端のところで寸のつまったパースペクティブにしたがって表象されている窓から、光をうけている。見えているのはほとんど窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは交叉しているとはいえ、ひとつには還元しえぬ二つの隣り合った空間を、おなじようなゆたかさをもって同時にうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の、鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。」(M・フーコー『言葉と物』p.29)
画家とモデルの間を満たす光。それは互いの視野の中にその出口を求めようと先に示した交叉円錐の幾何学に従って溢れ出してくる。しかし、これらの光の出所は結局のところ、この絵の中ではキャンバスの右端のところに位置する輪郭もはっきりとしない窓からである。この窓からもたらされる光線はこれら一連の出来事が起きているサロン自体を柔らかい光で包み込み、この作品自体の不可視の中心となっている王-王妃の瞳孔へと流れ込み、絵に表されている視野空間の情景を作り出している。そして、それはまたこの作品自体のコンポジションを構成したベラスケスの脳裏へもフィードバックされ回収されていることだろう。
しかし、こうした構成だけではこの絵画のフレーム自体を自らの視野とする王はまだ世界の中心たる自分自身のポジションをはっきりと自らの意識に表象化することはできていない。窓から差し込んでくる光は室内に充満して、様々な人物、画家のキャンパス、鏡を照らし出し、そこに視覚では捉えることのできない種々の像を意識のうちに表象化させてはくる。が、しかし、結局のところ、王自身も鏡に映された自分や画家のキャンパスに描かれているであろう自分を表象化することによって、部屋の中の一住人と化し、この作品の視点そのものとしての不可視の中心が持っている本質的な役割は、ただ窓から入射してきてキャンパス内を満たし室内を渦巻く光に委ねられたままだからである。この絵を描くことを可能にしているこうした窓からの光をこの作品のコンポジションに即して「左右からの光」と呼んでみることにしよう。
作品として描かれた光は見紛うことなく「前後からの光」としか言いようのないものであるが(鏡の光も含めて)、ここで前後からの光に照らし出された事物の諸関係をあらわにしている(表象化している)のは実は左右方向からの光(窓から差し込んできている光)だということだ。そして、前後からの光は左右方向からの光の存在に気づいてはいるものの、その光を自分と同一視することはこの時点ではまだできてはいない。
そこでベラスケスはもう一つの仕掛けをこの作品の中に忍び込ませる。つまり、この部屋全体に渦巻いている前後からの光と左右からの光が行っていることの全体性、すなわち前後の光によって画家とモデルとの関係を表象させ、左右の光によって画家とモデルとの関係を表象化していたものを表象化させること、この二つに加えて、今度はその第二の表象化を行った認識の視座自体を表象化する者を象徴として作品の中に盛り込んでくるのである。
それは絵画の中央に配された鏡のすぐ右隣、部屋の出口の階段のところにいるひとりの男として描かれている。この際、彼が何者であるかは問題ではない。いずれしろこの人物は、この部屋で今起こっていることの全体を俯瞰できる立場にある唯一の人物であろう。彼は画家としての描く立場、王-王妃としての描かれる立場、そして、その情景を見ている家臣たちの立場、それらをすべて一望のもとに眺められる立場に立っている。その意味において、彼はこのサロンという閉ざされた一つの全体空間から抜け出る開口部を知っている何者かである。彼が佇むその開口部は単に部屋から水平方向に穿たれた出口という形を取るだけではなく、次元を異にすることを暗に示すために「階段」という形で描かれている。この階段は部屋全体を支配していた二つの光の方向であった前-後、左-右から、さらに上-下という抜け道を知った意識の表象化の力の象徴でもあるだろう。
窓から差し込んで室内に充満していた光とともに不可視の中心となっていたこのモデル(王)の視点は、この第三者たる「階段の男」によって露なものとされ、結果的に、この階段の男の眼差しは王の視点さえも自らのうちに表象化することを可能にしてくる。つまり、世界を客観視する眼差しそのものがここにおいて意識のうちに表象化されてくるのである。これは哲学的に言えば、超越と内在の合体ともいっていい出来事であるだろう。思想史的立場から見れば、この絵画が描かれた古典主義の時代を契機としてあのデカルトの「我思うゆえに、我あり」という言葉で有名な近代理性としての「我」が立ち表れてくることは言うまでもない。
多少、まどろっこしい描写になってしまったかもしれない。次回はこれらの構造をヌーソロジーらしく簡潔な表現で解説することにしよう。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト