7月 30 2008
時間と別れるための50の方法(24)
●位置の交換という概念
――一つの対象(客体)に対して、主体として感覚化されている位置を、対象の手前に存在していると思われる肉体側の位置側から、対象の背後に見えている背景面側へと移し替え、さらに、そこに見えている背景面を、そのまま対象の中心部へと遷移させること。これを「位置の交換」という。(『人神/アドバンスト・エディション』p.389)
OCOT情報では、人間の最終構成が始まると、主体概念と客体概念の逆転が自然に起こってくると伝えてきています。この逆転のことをヌース理論では「位置の交換」と言いますが、その内容はまさに、ベルクソンが主張していた、観察されているイマージュとしての客体(その対象が対象足り得るための記憶のたなびきを含むということ)の中に主体を見るということに他なりません。大ざっぱな言い方をすれば、「わたし=主体とは実は見られているものの方だった」ということを意味します。
前回のベルクソンのところでも話しましたが、「位置の交換」という作業が持つ意味は、「意識がここにこうして生起している」という出来事を、従来の考え方のように自分の体内(脳内)で起こっている観念作用の連鎖物のように捉えず、目の前の自然という開かれた場所そのものへと遷移させる、ということと同意です。ただ、このとき注意しなければならないのは、この自然という存在を、従来の時間・空間的な意味での「外部」環境のように見なしてはならないということです。この生起の場所とは持続=記憶を所持した「わたし」が浸透している世界なわけですから、むしろ、従来の言い方をすれば、わたしの内部として息づいているような場所になります。つまり、人間の外面(知覚が起こっている場所)という空間とは身体の内部世界という言い方もできるのです。それが外部のように見えてしまうのは、人間の意識が人間の内面空間の方に偏ってフォーカスさせられているからにすぎません。
対象の背後と手前をそれぞれ半径に持つ互いに反転した二つの球空間、次元観察子ψ3とψ4。さて、もしこのような空間の二分割が精神と物質の分水嶺足りうるものだとすれば、人間の外面=ψ3は人間の内面にとっては、極めて微小な空間領域の中に映り込んでいるということになります。モノの背後の空間はモノの手前の空間の中に小さく縮められて半径無限小の小さな球体となって入り込んでいる。すなわち、これは哲学が「内包(ないほう)」と呼んできた概念にほかなりません。
時空という名の延長空間上のあらゆる位置にきら星のごとく散りばめられた〈未分割の広がり〉の内包としての知覚空間。ここに今まで紹介してきたようなベルクソンの思考を重ね合わせれば、それはまさしくライプニッツが「モナド(単子)」と呼んだ概念に酷似してきます。
モナドとは世界を作っている最小単位のようなものです。しかし、これはデモクリトスが唱えたようなアトム(原子)のことではありません。アトムは物質の最小単位としての概念ですが、モナドとはライプニッツによれば、精神のことです。ですから、モナドには認識能力があります。そして、モナドはそれぞれが世界の中心でもあり、全体を表象する能力を持ち、なおかつ部分とも成り得るような代物です。仏教の言葉で言えば「一即多」「相移即入」なる帝網(たいもう)の目、今風の言葉で言えば部分が全体を含むホログラフィックな存在です。
一人、時空の魔術師となって、
星空の下に立ってみよう。
手のひらの上には小さなピンボールが一つ。
その表面には星々のすべてが映り込み、
今か,今かと、
反転のときを待っている。
次元観察子ψ3の球空間のイメージは、ちょうどこのピンボールの表面が裏返しになったようなイメージです。モノの背後にある時空間の広がりは光速度によってその限界にまで縮められ、人間の内面においては、そのモノの中心点と見なされるところへとそっと人知れず入り込んでいる。そんなイメージです(下図1参照のこと)。
しかし、ここはもはや単なるモノの中心点ではなく、今までの話でも分かるように、そのモノの存在の知覚が起きている場所のことでもあり、「わたし」自身と言い換えてもいいようなところになります。こうしたモナド化した「わたし」自身のことをOCOTは「最小精神」と呼んでいますが、これはヌース的に言えば、覚醒した小さな小さな主体の赤ちゃんです。
最小精神は顕在化における最初の位置となります。(シリウスファイル)
こうした一連のイメージを持って、周囲のモノを一つ一つ見つめてみるといいでしょう。そうすると、その見つめているモノの中心に見つめている「わたし」が息づいている感覚が多少なりとも現れてくるはずです。。。ん? 現れてこなかったらゴメンナサイ。
――われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。(ベルクソン『思想と動くもの』)
まだまだ続くよ。
9月 5 2008
時間と別れるための50の方法(34)
●第二のモナド
次元観察子ψ5~ψ6の描像は、その描像だけとっていえば極めて簡単なものになります。ψ3~ψ4でモノが果たしていた役割を、今度は「わたし」の身体に置き換えればいいだけです。つまり、『人神/アドバンストエディション』にも書いたように、わたしの身体の前方に延びていると想定される線をグルっと回転させ、そこに生まれている線を綜合したところに概念化される球空間(正確には3軸での回転を行なう必要があります)、これが次元観察子ψ5となります。そしてその反対に、わたしの背後方向に想像されている線を同じくグルっと回転させたところに概念化されている球空間、これが次元観察子ψ6となります(下図1参照のこと)。しかし、次元観察子のψ3とψ4を「等化」した空間が、なぜわたしの身体の周囲の空間となるのでしょう?まずは、その理由について少し説明してみます。
ψ3とψ4の球空間が等化されるためには、ψ1~ψ2をψ3として等化したときと同じように、その形作る球面が外面=内面、内面=外面というような捻れを持たなくてはいけません。しかし、ψ3とψ4の球空間を限界づけているところは無限遠点ですから、単なるモノの表面が作り出している球面のイメージを反転させてイメージさせても等化には至りません。無限遠点自身自体が内面と外面を捻るような捻れを持っている必要性が出てくるのです。さて、このような捻れを意識に形作るにはどのような思考を展開すればいいのでしょうか。
まずは、ψ3の球空間の内壁をイメージしてみましょう。これはモノを原点として広大な広がりの果てに「見える」天球面としてイメージされるはずです。そのとき、その天球面を主体の位置と見なせば、それはもう無限遠に到達したことになると考えます。なぜなら、単なる物質的な運動のイメージではどうしても到達することのできなかった「無限遠」という位置に「主体の位置」という差異をはめ込んで3次元の限界を飛び越えたからです。この措定を3次元という概念が持つ同一性からの跳躍と考えましょう。そして、以前お話したように、この-∞への方向の無限遠が形作る球面をそのまま「点」と見なして下さい。言葉遊びにすぎませんが、実のところ転すれば天とは点でもあるということです。なぜ天を点と呼べるのかというと、ψ3の球空間の内壁上のどの方向を取っても「わたしの身体の前方」という意味ではどこも同じ方向になっているからです。身体の側から主観的に世界を見た場合、それは、わたしの「前方向」という直線上の「1点」でしかないというということが分かります。例の面点変換という概念です。ここは少々分かりづらいかもしれませんが、僕らは「前」でしか世界に接してないのだという考え方をしているわけです。
さて、ここで、このとき見えている天球面の「裏面」について考えてみましょう。これはψ3の球空間の内壁(人間の外面)の裏側に当たる部分ですから、ψ4の球空間の内壁(人間の内面)に当たります。人間の内面であるψ4の球空間の内壁は、観測者にとっては自分の背後方向のはるか彼方に想像されているものでした。そして、この方向は「後ろ」ですから、この内壁は決して「見ることができない」天球面になっています。しかし、たとえ見えなくてもこの天球面は「身体における後方」という意味で、さきほとの「前方向」同様に、主観的な空間に立てばどの方向をとっても「後ろ」という名の同じ方向性だと考えることができます。
このように考えてくると、結局のところ「ψ3とψ4を等化している空間」というのは「身体における前方向と後方向とを等化している空間」と同じ意味だということが分ってきます。前を後にする方法は簡単です。今度は観測者自身が自分の主観的な空間の中でグルっと自転すればいいだけです(ここで、身体を自転させても前は前だろ、と考える人がいるかもしれません。それについては後でまた説明します)。このとき、自転の軸は当然、x、y、zの三つが出てきますが、この三軸を使って自転したときに形成される空間の綜合が次元観察子ψ5ということになります。
このことは何を意味しているかというと、主観的な空間において認知されている身体の位置というのは、実際は、客観的な空間における+∞としての無限遠点と-∞としての無限遠点の重合点、つまり、ψ3とψ4が形作っている球面の捻れの位置そのものになっているということを意味しています。そして、観測者自身の自転によって形作られているこの球空間(これを知覚正面と知覚背面を等化した球空間という意味でこれから知覚球体と呼ぶことにします)の奥行き方向もまた知覚的事実として一点同一視されていて長さというものをほとんど持っていないわけですから、人間の内面認識においてはミクロの微小空間内に点状の微粒子状の存在として現れることになるはずです。
次元観察子ψ5が知覚球体であることが分ると、次元観察子ψ6はその反転空間なわけですから、自ずとその正体を明らかにしてきます。そうです。冒頭にも書いたように、それは観測者の背後方向への延長を半径とする球空間です(ψ5同様、x、y、zの三軸で回転したときの綜合による球空間と考える)。しかし、こちらの球空間は無限遠が視覚としては生じてはおらず、想像上、概念化された正体不明の遠い遠い場所になっているので、文字通り、延長概念によって象られた広大な球空間になってしまいます。これが正式な意味での局所的時空です。
皆さんも、以上の説明を頭に入れて、実際にその場で回転して次元観察子ψ5とψ6を意識に構成して見るといいでしょう。大きな大きな宇宙空間の中心に、小さな小さな粒のような宇宙空間がくるくる回りながら入り込んでいるのが容易に感覚化されてくるはずです。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 5 • Tags: モナド, 人類が神を見る日, 内面と外面, 無限遠