10月 29 2018
持続という概念を育てるための2冊の本の紹介を兼ねて
先週、本屋で一冊の本を仕入れてきた(下写真上)。
『ベルクソン=時間と空間の哲学』中村昇
ヌーソロジーによく顔を出す「純粋持続」というタームがあるが、このタームの解説に特化されたベルクソン本だ。ベルクソンの一般向けの解説本はたくさんあるが、とにかく、この本、「純粋持続」に的が絞られていて、とてもいい解説書になっている。ヌーソロジーがやろうとしていることがより一層分かるようになる本ではないかと思う。
ベルクソンの概念を通してヌーソロジー風に「物質の三態」を挙げるなら、
1.物質とは瞬間である。
2.物質とは記憶である。
3.物質とは持続である。
ということにでもなるかな。
1.は時空上の物質―無に等しい
2.は知覚上の物質―イマージュ
3.は内在としての物質―精神と同意
ベルクソンは3.までは語っていないけど、ドゥルーズは3.を見ていた。ヌーソロジーは3.しか見ていない(笑)
ベルクソン=ドゥルーズの系譜に倣って、僕らはもう一度、記憶(持続)について深く考えるべきだと心の奥底から思う。多くの人は記憶が脳の中にあると思っているようだが、事実は真逆であり、記憶の中に脳がある。さらに言うなら、それを言明している僕自身もまた記憶の中にいるのだ。じゃあ、それは、一体誰の記憶なのか?―ということになるのだが。そこんとこで思考しているのがヌーソロジーだと思っていただければよい。
つまり、人間の内面の意識が先行して働いているときは、人間の外面は「自我」によって領土化されているが、人間の外面の意識が先行する顕在化の次元にあっては、意識の絶対的脱領土化が起こり、思考は自我には回収されなくなる、ということ。そのような「構え」が必要だ。これは、一種の禊(みそぎ)だろう。ヌーソロジーは実は禊の思考でもあったといわけだ。
その意味で、ヌーソロジーがいう「変換人」とは自我の自己同一性から溢れ出てくる「別人」と考えた方がいい。ヌーソロジーが「ヌーソロジーは生活には役立たない」し、「そのような動機を持ってヌーソロジーをやっても意味はない」といつも言ってるのも、この「別人」を強く意識してのことだ。
ただし、この「別人」の存在の気配が既存の自我に対して、圧倒的な希望として働くことはあるだろう。かつ、自我の軸を揺るぎないものとし、自我の確立を促すことも。
さて、「純粋持続の思考」のヒントになるような本は少ない。OCOT情報との兼ね合いで、最も参考になったのは『ベルクソンの哲学』というドぅルーズ本だ。先のベルクソンの入門本で、ある程度、純粋持続の何たるかを理解できたら、この本に進むのをオススメする。哲学書だが、ヌースをすでに知っている人は、結構読めるはず(下写真下)。
たとえば、こういうことがサラリと書いてある。
「知性は物質の認識であり、物質に対するわれわれの適合を示し、物質にならって作られるが、それは精神または持続のため、知性が物質を支配できる緊張の点において、物質の中に入り込むためにのみなされるのである。」―P.97
「物質と知性にはただひとつの同時的発生しか存在しない。ひとつの歩みは両方のためのものである。知性が物質の中で収縮するのと同時に物質は持続の中で弛緩する。」―P.98
「持続は物質の最も収縮した段階にほかならず、物質は持続の最も弛緩した段階にほかならない。しかしまた持続は能産的自然のようなものであり、物質は所産的自然のようなものである。」―P.103
ヌーソロジーの論の組み立ては、このベルクソン=ドゥルーズ由来の持続概念を、「奥行き=虚空間」として場所化しただけのものだと言っても過言じゃない。それによって、物理学(実在論)と哲学(観念論)を結びつけることのできる強靭な存在概念が立ち上がってくるということだ。
「奥行き」が重要なのは、それが私たちの意識にとって表象を受け取るものの場所であり、かつ、表象を与えるものの場所にもなっているからだ。奥行きは「存在の芯」なのだ。量子物理学が差異「i」を巡って展開されるのも、奥行きが精神の巻き込みと、物質の繰り広げの蝶番を担っているからと考えよう。
つまり、奥行きを挟んで、片方(幅化した奥行き)に世界の外部性が生まれ、片方(幅化を逃れた奥行き)に世界の内部性が生まれているというわけだ。
そして、この両者を合わせ持っているものが、存在の黄金分割点(重心)としての「わたしの身体」なのである。
11月 2 2018
『眼がスクリーンになるとき』
前回紹介したパゾリーニの映画とか、僕らが中学生の頃は普通にロードショー公開されていた。今観ると、完全にカルトムービーに見えるのが悲しいというか、辛いね。神話自体が存在の記憶なのに、その神話の記憶さえ消滅しかかっている。神話がないと人間は生きていけないというのに、ね。
映画といえば、ドゥルーズが『シネマ』という映画論の本を書いているんだけど、内容はベルクソンが展開した持続の哲学を映画史を通して、より存在論的に分析したもの。この本、一見、読みやすそうに見えるんだけど、かなり難解で、いい解説本を探してたんだけど、先日、本屋で見つけた。それがコレ(下写真)。
『眼がスクリーンになるとき』―福尾匠著。
ベルクソン理解にももちろん役立つし、ドゥルーズがベルクソンの哲学をどう発展させようとしたかが、よく分かる本。著者の福尾氏って初めて聞いた名前だったけど、まだ二十代の新鋭のようだ。二十代でこんな本を書けるとは……。いやはや、スゴイよ。
前半はテンポもよく、とても面白いんだけど、後半はかなりムダに難解になっている気がしないでもない。メイヤスーなんかの議論よりも、『差異と反復』や『襞』のドゥルーズをもっと盛り込んで欲しかったかなぁ、と。でも、ヌーソロジーの肉付けには、とても参考になる良書でした。
持続空間が全面に意識に上がってきたときの状態をドゥルーズは「時間イメージ」と呼ぶのだけど、その意識を作り出すためのドゥルーズの思考の格闘がよく分かる本になっています。(ちなみに、風の僕らの時間イメージは「運動イメージ」と呼んでいます)
『眼がスクリーンになるとき』でもベルクソンの「記憶の逆円錐」モデルが取り上げられているけど、この図式を実在のものとして内部空間(素粒子空間)と時空の関係として考察しているのがヌーソロジーのアプローチだと考えるといいと思う。それは事実として「在る」ということ。
参考までに、ベルクソンの有名な逆円錐モデルとヌーソロジーの「前-後」空間構造の図を対応させておきますね。ヌーソロジーが何をやろうとしているか、その意図が少しは伝わってくるかも(下図)。
蛇足ながら、「眼がスクリーンになるとき」というタイトルは、ドゥルーズが『シネマ』の中で、「目はカメラではなく、スクリーンである」と書いた内容に因んでる。ヌーソロジストならピンとくるよね。目をカメラに例える感覚は人間の内面。スクリーンならば、それは人間の外面。そういう感じで捉えておくといいと思います。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, メイヤスー