8月 23 2013
NOOS LECTURE 2013 OPV
8/22(木)午前10時より、NOOS LECTURE 2013 in 東京 第2回の申込みの受付を開始しました。ただいま、絶賛受付中!!詳細はこちらをご覧下さい→http://noos-academeia.com/blog/?p=1354
●NOOS LECTURE 2013 オープニング V
NOOS LECTUREではオープニングの際にオリジナルのビデオクリップを流すのが恒例となっている。今回は要となる「2013年」のレクチャーシリーズということで、しっかりしたビデオクリップを作ろうと考えていた。ただ、レクチャーはDVDとしても販売するので著作権の問題などがあって、使う楽曲もオリジナルで起こさなくてはならない。2009レクチャーのときは僕個人でGarageBandを使ってナンチャッテテーマ曲をデッチ上げたが、今回は音楽にはメッセージ性を強いものの望んでいた。そんな矢先、知人の音楽プロデューサーであるNさんの娘さんのAliya Miharuさんの「Dedicate」という楽曲を知り、一発で気に入り、テーマ曲に使用させてもらいたいと申し出た。すると、Miharuさんの方からも「光栄です」というお言葉。実に有難い流れとなった。
この「Dedicate」という曲、ラップ調なので歌詞が聞き取りづらいかも知れないが、実にエッジが利いた内容で、言葉の構成の仕方もかなり斬新だ。スタートから「どこまでゆくのかこの欲望、命までも破壊し尽くす奇行」「腐敗しヘドロ垂れ流し」「もういらない世俗、損得の施行、成功」というように、アンチオイディプス的なフレーズの連発で、原発事故以後の現在の僕自身の精神状況を歯を着せぬ言い方でスバリ代弁してくれている。特に中盤、「君が見ている方向、ほんとうの世界なのか?」という歌詞が登場してくるところのシークエンスは個人的にすごく気に入っている。ジル・ドゥルーズ、ニーチェ、超人、持続と奥行き、次元観察子、プラトン立体など、ヌーソロジー解説に登場してくる重要タームが水面上から、飛行機の出発掲示板さながら次々と打ち出されてくるさまは、見ていてほんとに気持ちがいい。
この映像を作ってくれたのは現在、メディアクリエーターをやっている福田さん。昔からのヌーソロジストで、『2013:人類が神を見る日』の初版本の装丁デザインを手がけてくれたときからの付き合いだ。「Dedicate」を渡して、わずか2週間程度で制作してくれた。実際のところ、打ち合わせは「こんな感じね」とアバウトに一回やっただけ。それでここまでのクォリティーのものを作ってくれたのだから、福田さんのヌーソロジー理解もかなりのものだ。
何度が見てると分かってくるのだが、一見ランダムに構成した映像のように見えて、実はヌーソロジーのキモとなる概念がいたるところに的確にまぶされている。一番、驚いたのは、さきほど触れた連射文字のシークエンスの最後の部分で「NOOSとNOS」の「と」の文字がフィーチャーされるところ。この「と」という接続詞は、ドゥルーズ哲学の文脈では『差異「と」反復』に代表されるように、わたし「と」あなた、時間「と」空間、男「と」女などなど、現象に表れたあらゆる差異を連結していくときの要となる人類がまだ知らない新しい「愛」の形態力を指し示す品詞なのである。偶然なのか、神の計らいなのか、福田さん恐るべし(笑)
と、まぁ、いろいろとゴタクをならべたが、とにかく、今回のレクチャーシリーズはこのオープニングビデオの世界観で、POPに、そしてラディカルにヌーソロジーの解説 を進めて行きたいと思っています。皆さん、遊びに来てね。
●NOOS LECTURE 2013 OPV
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4月 9 2014
モナドとコーラ
「一つの襞が生命体を貫通するのだが、それは生の形而上学的原理としてのモナドの絶対的内部性と、現象の物理学的法則としての、物質の無限な外部性を分配するためである。二つの無限の集合があり、一方は他方と交わるところがない」—『襞』ドゥルーズ p.51
モナドの絶対的内部性。この内部性の中でモナドがネットワーク化されていく条件が共可能性というものである。一つになれる「可能性」をモナド同士が交換し合うこと。決して一つになるのではなく、その「可能性」を共有するというところがミソだ。意識はこの共可能性に裏打ちされて発生している。
共可能性というからには不共可能性も同時に含む訳であって、絶対的内部性における創造の弁証法はこの二つの可能性の間を巡る弁証法によって展開しているという感じ。共可能性は円環的なもの(巻き込み)として、不共可能性は直線的なもの(繰り広げ)として。連接的か排他的かもここからくる。
「モナドの絶対的内部性」と「物質の無限なき外部性」は交わることがないとドゥルーズは書いているが、存在が共可能性と不共可能性の絶えることのない弁証法的発展性を持つのであれば、両者は必ず接点を持ち、絶対的内部性を拡張していく。それがOCOT情報のいう「交替化」という出来事。
で、当然、その接点の浮上とは何か?という話になるのだけど、それが量子力学だと考えている。包まれつつ包むものとして生じている時空と、包みつつ包まれるものとして生じている量子空間。内在平面は両者の間をまつっていく無限数の反復運動で貫かれているし、また今もなお、貫き続けている。
幅から奥行きへと空間の性を転換すること。奥行きとは女である。
女の性としての空間が浮上してくると、幾何学は女の幾何学へと変貌する。つまり存在の子宮として見えてくるということだ。この「存在の子宮」のことをプラトンは「コーラ(chora)」と呼んだ。プラトンによればコーラは以下のような特徴を持つ。
1、生成物を入れる容器
2、無時間性
3、叡智的なものでも感性的なものでもない
4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)
イデア=父、人間=子とするならば、このコーラはさしずめ母に対応するものと考えられる。哲学はこのコーラの前で足踏みしている。あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。
意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。
この原器の中に向けてわたしたちはロゴス(種子)を吹き込まなくてはならない。宇宙的生殖とはそういうものだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: コーラ, ドゥルーズ, プラトン, モナド, ロゴス, 弁証法, 量子力学