8月 3 2018
大地と世界との抗争の果てにやってくるもの
草が生える。動物たちが集まる。森が成長する。
ビルが建つ。人間たちが集まる。都市が成長する。
便宜上、前者をピュシス(生成)の世界、後者をテクネー(技術)の世界と呼んでみよう。
ハイデガーによれば、古代ギリシアではこのピュシスとテクネーが同一視されていたという。
もちろん、これは古代ギリシアではテクネーがピュシスと同等にイメージされていたという意味であり、古代ギリシア人にとって、技術とは自然の中に溶け込み、自然と一体となって生成すること=〈こちらへと、前へと、もたらすこと〉だったらしい。
それに対して近代がもたらした科学テクノロジーはどうか。
ハイデガーはそれを「挑発」と呼んで、生成(ポイエーシス)とは区別する。人間の生活に役立つよう、その用立てのために自然を挑発する行為、とでも言いたいのだろう。そして、この用立ての体制をゲシュテル(集-立)と呼んで批判する。
ゲシュテルには「骸骨」の意味もあり、ゲシュテルが支配していくところには最高度の危機が訪れるという。ただ、この危機は科学テクノロジーが自然破壊をもたらすからなどといった単純な理由ではない。ゲシュテルは真理の輝きと働きとを偽装するからだとハイデガーはいう。どういうことか―。
僕らは「科学的証明」を真理の働きと見なす傾向がある。実験を行い、統計的な優位さを持って現象の再現性を計れれば、それを概ねの真理とする、といったような身構えのことだ。科学テクノロジーも、当然こうした実証主義的なアプローチがあるからこそ、初めて制御可能になる。
ハイデガーは何が言いたいのか―人間が人工的に作り出す生成と、自然の生成はその本質が全く違うということだろう。そして、このゲシュテルの体制が作り出す偽の生成原理を本来の生成原理に重ね合わせて見てしまうところに、真の危険がある、と言っているのだろう。
だが、同時にヘルダーリンの言葉を引用して、こうも言う。
「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」
ここにあげた内容は『技術への問い』に書かれている内容だが、丸々、OCOT情報と一致していて非常に興味深い。つまり、生成にはヌース主導による生成とノス主導による生成との二つのタイプがあるということ。もちろん、前者がフィシスであり、後者がゲシュテルである。
OCOT情報によれば、ゲシュテルの体制が素粒子レベルにまで達したときに(原子力技術やコンピュータ技術と考えていい)、生成は本来のヌース先導型の生成へと方向を反転させていくという。ヌーソロジーが訴えているのも、この反転だ。
背後で何が起こっているのか―構造的には実に単純な話だ。ハイデガーのいうフィシスの運動が鏡映を作っているのである。ケイブコンパスでいうなら、Ψ10~9領域に対するΨ12~11領域がその偽の生成回路に相当している。この領域は、ヌーソロジー的には近代自我(コギト)の無意識構造の境域に当たる。
自然の中の都市、都市の中の自然。まぁ、どちらの風景でもいいが、そこには真反対の空間が折り重なって互いに逆向きのポイエーシスの運動を展開しているのだ。君にはそれが見えているだろろうか―。それは、ハイデガー風に言うなら、大地と世界との抗争でもある。
この抗争の後にやってくるものとは何だろう。
そこに新しい共同体のイメージを作り出すこと。
8月 27 2018
量子論はハイデガーのいう「最後の神」かもしれない
真の二元論とは、知覚的な場の中の「他者構造」の効果と、その不在の効果(他者がいない場合の知覚の有り様)の間にあるとドゥルーズは言っていた。ハイデガーのいう非本来性と本来性の関係がここにある。現存在はこの両者の間で呼吸している。
「他者構造」の効果とは、ハイデガーに即して言うなら、一つは頽落。もう一つは現存在化と言える。前者は見つめられるところに拠点を置く自我。後者は見つめているところに拠点を置く主体。頽落した自我は概念と言語に縛られ、現存在の方は知覚と記憶と同居している。事物存在と道具存在の関係に同じ。
ドゥルーズの文脈では、他者の不在において初めて「存在」が開示する。これをヌーソロジーは奥行き(純粋持続)の存在論として展開しているわけだ。
他者の不在と言っても、そこには全く別の他者が出現してくることになる。もう一つの純粋持続と化した他者だ。ハイデガーの言葉で言うなら「共存在」ということになるだろうか。この共存在性は量子論ではエルミート共役(複素転置)の関係に反映されることになる。
量子論におけるオブザーバブルはすべてエルミート演算子の形式を持つ。ということは、量子論的場は本質現成としての性起の場とダイレクトに繋がっている。目の奥底にある無底の心眼を開くこと。
そこに見えてくるものは、おそらく、人間の自己を表象化していた、表象化するものたちの世界だろう。それを哲学風に超越論的なものと呼ぼうが、精神分析風に無意識(エス)と呼ぼうと自由だ。いずれにせよ、それが物質を根底で支える、終わりでもあり、始まりでもあるものの姿だ。
量子化の基本的な手続きは位置xと運動量pの正準交換関係を設定するところから始まる―[x^,p^]=x^p^-p^x^= ih~ 。 ヌーソロジーでは、この式を自他における〈幅 -奥行き〉間の差異として考える。差異 ih~はおそらく「表面」の位置だ。これは「最小精神」を意味する。
自己意識を構成する超越論的なものの構造は、この表面で受け取られる「表相」に始まって、「表相」を送り出すところに至るまでの複素空間の次元構成の中で形作られている。最終的に、この受け取りと送り出しの位置は自他の間で真逆に構成され、その交換がクォークとレプトンの対称性と関係を持つ。
自他の精神構造は、まさに無意識においても表裏一体で組織化されているということだ。その交替化の関係を表すのが大系観察子のケイブコンパス(Ω11~12)だと考えるといい。下図。
その意味で、この構造を巡る力の流動性を大本で操っているのは、 ih~ という差異ではないかという感覚がある。ヌーソロジーの思考にとって、この ih~ は、ハイデガーのいう、まさに存在開示のために到来した「最後の神」のような位置づけなのだ。量子論はいずれ人間の在り方をその根底から変えるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連, ハイデガー関連 • 0 • Tags: ケイブコンパス, ドゥルーズ, ハイデガー, 大系観察子, 量子論