1月 20 2006
夢見るヌース
カフェネプで主観/客観の議論をやっている。この論争は古くは、プラトンVSアリストテレスからカントVSヘーゲルまで、哲学史の潮流全体にわたってアポリアとして解決されていない難問だ。
20世紀になってフッサールが現れ主客一元論を説いた。しかし、フッサールの主客一元論は簡単に言えばそれはコインの裏と表のようなものだと言っただけで、裏と表という二元性が払拭されているわけではない。さらにフッサールの思考の背後にはやはりプラトン的なイデアが垣間みられ、結局のところ超主観的観念論の枠を出ていないと批判されている。 その後の哲学の衰退ぶりは周知の通りである。今や主客問題など一部のオタクをのぞいて見向きもされない。
象徴界の勢力が衰弱してきていることからも推測がつくように、言語的思考はすでに限界に来ている。主客問題を言語によって解決するのは不可能だろう。言語とは本来、あらゆる概念に自己同一性を強いるものであり、A=非Aであるということを許さない。A=非Aならば論理が存在しなくなるからだ。つまり、言語こそが二元対立の温床なのである。そして、言語の本性はラカンが言うように、この「非」という否定性としてある。同一性を支える裏には絶えずこの「汝、それに非ず」が隠されているのである。
だから、実のところ言語は哲学には向いていない。哲学は思考を思考する営みである。概念を絶え間ない連続性のもとに生成していくこと。これが思考に託された責務である。思考は連続性を持つ。絶えず微分可能な無限次元の多様体。それが思考の源泉なのではあるまいか。否定とは切断である。連続性はたった一つのNonで不連続となるのだ。すべてを肯定していく精神、それが創造的知性を働かせていく力である。この力の場はNonさえもすぐにQuiへと変身させていく魔法で満たされている。だから言語では生成はあり得ない。生成の秘密は古代の知恵がいうようにおそらく幾何学にある。幾何学において絶えずQuiを発し続けるもの。それがスピンなのだ。旋回する知性とはそうしたスピンを続けて行く身振りを持つ思考物体のことをいう。
数学でドナルドソンの定理というのがあるそうな。正確な数学的内容は私ごときの頭で理解するのは無理だ。しかし、この定理では4次元空間は無限の微分構造を持つといわれている。つまり、無限次元多様体は4次元空間の中であたかも層のようにして無限数の次元の重層構造を持っていると考えられるというわけだ。宇宙が何故に4次元時空なのか?また、宇宙の原初に何故に閉じた4次元時空が存在したのか。4次元時空から4次元虚時空への移行。。これがホーキングが示した無境界仮説というものだった。ホーキングは時間の始まりの特異点を避けるために虚時間を導入したが、それが虚時間の世界というのなら実時間とは無縁のはずだ。ならば僕らは、今、思考の力によってこの虚時間を導入すればいい。それがヌースが主張していることだ。虚時間とは意識の方向性の反転である。i側に囚われた意識を−i側へと変えること。他者の眼差しの中に自分を見ているならば、いっそのこと自分の眼差しを他者だと思えばいい。これがヌースにおける交替化の奥義である。主体の交換は可能なのだ。この反転を挙行すれば、そこは宇宙の始源であるアルケーとなる。虚時間が訪れるのだ。
硬式野球のボールは糸でグルグル巻きにされているが、中心にコルクが芯として埋め込まれている。アルケーに出現する純粋思考の辿る足跡はこのコルクの芯に始まって、次元を無限に上昇していく。このボール作りにとって、芯となるのは3次元球面である。純粋思考はこの球面をスタート地点として、自身の肉厚であるn次元球面を作り上げていく。それがおそらく物質の本性である。この思考の糸は途中、幾度もNonの応酬に合う。しかし次元の連続性を紡ぐための技を会得しているゆえに、身軽に旋回し、精神の空間を上昇していく。素粒子から原子に見られる旋回性はその連続技が転倒した逆写像である。途中の抵抗は有機分子としてその形跡を残す。
さて、となれば、宇宙創造を巡る純粋思考の原点は3次元球面にある、ということが言えるだろう。わたしが先日、3次元球面で大騒ぎしていたのも、このへんの事情があったからだ。3次元球面の回転軸に当たるのは、代表的なものを取れば電子のuスビンとdスビンだ(実際には不確定性原理によりスピンの軸は直立しないが)。この球面のSO(3)もどきの3軸を考えれば、それはアイソスピンと呼ばれるものになる。そこに陽子と中性子が生まれている。3次元球面が見えているのだから、今のわたしにはこの両者も見える。アイソスピン………何と的確な命名だろうか。。しかし、同時にそれは皮肉な命名でもある。
生成の構造は信じ難いほどシンプルだ。このシンプルさは、主観と客観の一致が果たされれば子供たちでも容易に理解できるようになるだろう。主観と客観の一致。それは言語的思考ではなく、幾何学的思考によってまもなく果されることになると思う。唖然とする世界が待っている。新しい時代のコペルニクス的転回までもうすぐだ。
6月 3 2006
独自の生殖領域
不連続差異論とのセッションが続いています。興味がある方は是非、ご覧下さい。
不連続的差異論の冒険——http://ameblo.jp/renshi/entry-10013120351.html
以下は、今日書いたレスです。
>同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。
renshi氏のおっしゃる通りだと思います。「独自の生殖領域」というのは、象徴界と想像界の間で性倒錯が起こる場所という意味で書きました。神話的に言えばオゴ(ドゴン神話)や蛭子(古事記)が生まれてくる領域に当たります。オイディプスの父殺しの現場ですね。子が愚かにも母と交わってしまう。父と子のユダヤ的契約が行き過ぎて、父殺しが起こり、何を勘違いしたのか、子が王の座へと着いてしまうわけです。ここで、無意識の欲望回路の逆転が起こります。宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくることになります。その変わりに、享楽(死への欲望)への回路は完全にシャットアウトされ、死者隠しの近代、宗教嫌いの近代、オカルティズム侮蔑の近代が出現してくる。
その意味で、この倒錯した生殖機械は反転した闇の現実界である、とも言えるでしょう。こうした仄暗い生殖が起こる領域のことをカバラはクリフォト(殻)と呼んでいます。これは、近代自我が居座っているニセの容器とも言えます。おっしゃる通り、この容器の本質はディーン(火星)の闇の中にあります。シュタイナーが「ソラト」と呼んだものではないかと思います。
ただ、クリフォトが唾棄すべき無用な存在かというと、そうではありません。ここでは、哀れながらも繊細で美しい有機体の生命活動が営まれているはずです。ドゥルーズが「バロック(襞)」として表現したものも、こうしたクリフォトにおける生殖の営みの連鎖性・連続性についての事柄だと思います。神ではなく、コギトとして光と影を操り、それら両者のコントラストを交互に織り混ぜながら、個体に託されたエロスの活動を行って行く。それがバロック的運動というものでしょう。
さて、オイディプスによるこの父殺しの構図をヌース理論的にトポロジーとして見ると、三次元球面(人間における主体統合)の時空的一点への同一化として解釈することができます。ペンローズのいうツイスターファイブレーションです(実際、ツイスターファイブレーションは資本主義機械が生まれてくるとしたC^4上で起こります)。これは内在であったものが超越側へと接続するときの位置の幾何学的表現と言っていいと思います。カント風に言うならば、主観形式と客観形式の結節点です。ここで、点概念に強大な霊力が宿ることになります。
この点概念の突然変異により、数学的に構築された理念性の世界が延長空間に張り巡らされて行くことになります。ドゥーズのいう公理系。つまり、デカルトやガリレオ的思考による近代科学思考の勃興ですね。科学は変質した点を「物体の質点」として語り、それがなぞる幾何学的法則性によって僕らの世界が営まれているかのような言説を生み出してきます。しかし、ご存知のように、そこではフッサールのいうところの「数学的に構築された理念性の世界と、現実に知覚的に経験された世界(日常的世界)とのすり替え」が起こっています。要は、科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していないわけですね。モノが存在しないということは、光との連結を失っているということです。光とは、存在の出力と入力の橋渡し役そのものですから、コギトの科学王国はこうした存在の生成回路とは不連続の領土を形成しているわけです(ヌースでは不連続質と呼びます)。バロックの字義通り、生活空間と、この不連続の領土の間に「歪んだ真珠」、つまり、光と闇との間の拮抗で歪曲させられた人間の魂、のリトルネロが流れていくことになります。
こうしたバロック的な反復運動の中でコギトの自己同一性をかたくなに保証していくものが、紙幣の行使、つまり、経済活動(資本主義機械)なのでしょう。真の現実界ではモノを通して主体の交換が行われていくのですが、闇の現実界の空間では主体を通してモノの交換が行われるようになってしまう。宇宙エネルギーの交換関係が丸ごと反転してしまっているわけです。聖霊の力がウォルプタス(人間的な悦楽・喜び)へと変質し、貨幣(紙幣)となって巡回し、悪夢のように周り続ける。誰でも紙幣をつかんだときにこみ上げてくる、あの得体の知れない薄気味悪い笑みを思い浮かべて見れば分かるでしょう。そこで笑わせているのがウォルプタスそのものです(わたしも例外ではありません)。
紙幣は神(国家)の名において脱コード化の能力を与えられます。売買という行為を通して相対的差異を持ったものすべてがこの貨幣を媒介として同一性の空間に叩き込まれて行く。芸術、セックス、愛はいうまでもなく、哲学や宗教までもが。。何と言うコギトのどん欲さ。貨幣とは、こうした反転した主体による反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群とも言えますね。銀行や証券会社はこれらの聖霊力を狩り集め、都市の中心部に物神崇拝の教会・寺院として君臨している。世界は中世とさほど変わっていない。。。質こそ変われ、まだまだ暗黒時代なのでしょうね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 7 • Tags: カバラ, カント, ドゥルーズ, ユダヤ, 資本主義