11月 4 2022
くたばれ、トランスヒューマニズム!!(笑)
神尾先生が主催しているIEMJでもお世話になった生命システム研究所の根本先生の講義。ヌーソロジー研究所の研究動画でも紹介した「意識のハードプロブレム」について詳しく解説されています。最後は唯物論批判で終わっていますが、まったく的を射た議論だと思いました。
根本先生の講義を聴いて改めて思ったのは、私たちが唯物論的思考を乗り越えるためには、〈見る-見られる〉という経験の差異として現存している空間の区分を知性に上げなければいけないということ。この空間は4次元なので、正確には時間における「持続」と「通俗的時間」の区分に当たります。単純に言えば、これは身体における前と後の区分です。
唯物論は認識的に言えば、意識が対象意識に支配されていることによって生じているもので、この対象意識は〈見られる空間〉の中で生じているものです。いわゆる時空ですね。一方、〈見る空間〉である「前」としての持続空間は、実際は、そのような時空の一点一点に張り付いている内部空間になっており、現象的には、この内部空間が根本先生の言うところの「高次の空間構造」を作っています。
そして、この内部空間こそが物理学は素粒子(7次元の余剰次元)と呼んでいるものです。時空サイドから見れば、もちろん素粒子は極小の存在のように見えますが、その実質は私たちの「前」としての4次元の収縮=射影の性質にあります。実際、私たちの視野空間にはいかなる厚みもありません。要は、知覚的現実に即して世界を見ることが必要なわけです。
こうした「前」と「後ろ」の空間的差異が知性に上がってくるなら、私たちは、もはや物質を対象として見ることはできなくなってきます。というのも、この「前」が物質の土台である素粒子として物質の内部に入り込んでいるからです。言うまでもなく、この「前」とは持続としての精神のことです。魂と言っても構いません。シュタイナーの言い方を借りるなら、エーテル空間と言ってもいいでしょう。
物質ではなく空間を見ましょう。物質の本質はこうした4次元を土台にした高次の空間構造から成っています。そこでの唯物論は、もはや唯心論と何ら変わるものではありません。ヌーソロジーが言う「物質と精神の等化」(主客一致の認識)とは、そのような高次の空間認識とともにやってきます。
複雑な理論など要らないということですね。見えるがまま、あるがまま、そして、欲を言えば自己の存在感覚のまま、空間とともに自らが空間となって思考すればいいだけです。そうすれば、そこには必然的に高次の空間世界が立ち上がってきます。
11月 8 2022
物質が先か(唯物論)、意識が先か(唯心論)という議論はもう古い
根本さんが紹介してくれていた、トランスヒューマニズム系の研究者方の意識に関する議論。
僕にはどうしても、こういう方々の議論は、問いの立て方が根底から間違っているように思えて仕方ない。
物質からどのようにして意識が生まれるのか。もしくは意識からどのようにして物質が生まれるのか。イデア的観点からするなら、これらはどちらも正しい問い立てのように思えない。物質と精神は同じものの二つの側面であり、その意味で、その発生も同時的なものと考えないといけないように思う。つまり・・・
素粒子とともに意識は生まれている——ということだ。
存在の転倒は秘教的伝統の基本だ。イデアとロゴスという相補的な関係がまるまる転倒したところに存在者の世界が生まれている。本来的世界はイデア→ロゴスという順に生成が進むのだが、人間の世界はロゴス→イデアというように両者の関係がひっくり返っている。
つまりは、言葉の世界が先行して、見ることが後追いになっているということだ。これもまたヌーソロジーがいつも言っている「他者-構造」がもたらしている効果と言っていい。
そして、このロゴスからイデアへと方向付けられたところに現存在としての人間の意識の場が生じている。素粒子とはこのイデアに方向付けられた場の別称である。
人間が持った言語で素粒子の世界を描像できないのも、こうしたロゴス的場とイデア的場の間に絶対的な差異が介在しているからだと考えるといい。
つまり、差異の思考が開始されない限り、意識とは何かは分からない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 03_動画 • 0 • Tags: イデア, ロゴス, 素粒子