11月 28 2022
素粒子とアリアドネの糸
facebookで以前から拝見していて面白い人だなぁと思っている市田良夫さん。ありがたいことに、その市田さんがヌーソロジーにも関心を持ってくれ、Twitterにレスポンスがあった。
市田さんは、量子力学など理系の知識にも精通されている方だけど、一方で仏教やヨガなど、東洋の叡智にもお詳しい。レスをしているうち”外の思考(フーコー )”という言葉が頭に浮かび、そのままつらつらと、この”外の思考”の在り方についてつぶやいた。この”外の思考”というのが、ヌースのことでもあるんだけどね。
以下、そのつぶやき。
空間は持続と延長という二つの性からなっている。今の私たちは延長でしか空間を見ることができず、持続としての空間を無視している。
「人間の意識は幅で空間を見ているだけで、奥行きを見ていない」と言ってるのも、その意味だ。
奥行きは持続のことでもあるので、これは自己の根底に息づいている主体自身と言っていいものだ。Sに「 / 」。ハイデガー―ラカン由来の消された存在、消された主体の意味がここにある。
幅で支配された空間にとって、奥行きは差異である。いや、より正確に言うなら、幅が先行する空間知覚と奥行きが先行する空間知覚の間を繋ぐ差異として奥行きは働いている。もちろん、私たちの場合、奥行きが先行する空間知覚は完全に無意識化している。
この差異を端的に表現してるのが位置と運動量の交換関係px-xp=i ħだと考えると面白い。x=幅で、p=奥行きだ。この「 i (虚数単位)」が文字通り「 I =アイ」として失われた主体の数学的表現となっているわけだ。今の私たちは幅が先行してxp-px= -i ħとなり「 i 」が負の方向を向いて、他者化している。
目の前に実数直線(幅)を見るとき、奥行きはどこにあるのか。少し考えれば、それはすぐにわかる。原点として無意識化している。この奥行きが意識化されれば、幅は逆に奥行きに従属し、空間は虚数軸が作る点次元の方へと位置を移動する。そこに複素空間としての内包空間が息づいている。
ヌーソロジーが「私たちは物の中にいる」とアジテートするのも、こうした内包の場へと意識の位置を移動させたいからだ。この認識が生まれれば、見えている世界そのものが物の内部へと丸ごとワープする。つまり、物の外部にいると同時に物の内部にいるという例のバイスペイシャルな感覚が生み出される。
外部/内部という二項対立の外にある思考、つまり”外の思考”は、このようなバイスペイシャルな空間思考として到来してくる。
そのような”外の思考”に憑依された者にとって、現代物理学が見出した素粒子の構造は、人間という迷宮から出ていくためのアリアドネの糸に見えてくる。
さて、市田さんだけどYoutubeも始められている。本当に博識で、ユニークな方。話もとてもわかりやすい。第一回目のタイトルが「マルチョンとは何か」。きてるよね、ホント。
12月 1 2022
ヘンリー・ミラー、いつかじっくりと読みたい作家
「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしのない準備でしかない。いつの日かレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう」
ヘンリー・ミラー
私たちが目にする物は球面で閉じている。しかし、それを見つめる眼差し(奥行き)は物への射影線でもある。ここに見るものと見られるものが合流するルートがある。物の表面を2次元の射影空間とするなら、眼差しの所在は4次元空間ということになる。眼差しが幾重にも畳み込まれたものとしての物・・・
4次元は純粋経験の場。そこでは私と対象は未分化で、合一している。そこには経験する主体としての「私」の位置はない。「私」がいないのだから、対象もまた客体としては意識されない。その意味では4次元は「私」の経験ではないということ。「私」ヲ経験サセテイルモノ——と呼んだ方がいい。
アリストテレスの『魂について』では、ヌースが光に喩えられている。
「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである」
奥行きは光そのものである。そこには「いつでも今・どこでもここ」を拠点とする個別の能動知性が眠っている。
光の中には高次元の対称性の論理が働いている。ドストエフスキーはそれが神だとも言う。現代ならそれは素粒子に相当する。そこからどれほどの対称性をこの知性は生み出していくのか。光に始まり光に終わる存在という名の円環。その綴じ目に受肉したロゴスとしての「私」の身体が息づいている。OCOTのいう「重心」。
ミラーのいうレンズはすでに完成している。私たちが進むべきは、光の中の対称性の世界。ヌーソロジーの思考装置の一つであるケイブコンパスはそのための羅針盤だと思っている。
現実は観念と実在性との統一の達成においてこそ現実たり得る。つまり、すべての現実的なものは、それが理念をその中に孕み、理念を表現するものであるかぎりにおいてのみ存在しているということだ。物質と精神を統合する存在論的知覚はそのようなものとしてやってくる。
つまりは、外側から見ると物質。内側から見ると精神。これが理念が理念たりうる絶対的条件と言っていい。これがヌーソロジーが思考素としている観察子の定義でもある。つまり、観察子とは理念(イデア)だということ。
「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」
ヘンリー・ミラー
ならば、内なる原子爆弾を炸裂させる以外ないではないか。君自身が内なる核兵器となれ!!——それがヌーソロジーのアプローチだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アリストテレス, ケイブコンパス, 観察子