1月 23 2023
後期、最後の授業
先週は大学での講義。学生にフッサールの現象学を紹介した。現象学が行った還元の考え方はヌース的に言えば、外面先手の世界認識のあり方を作ろうというもの。内面の世界の方は”世界確信”という言い方で表現されるのだが、ここがひ弱い。物の正体は不問に付されたまま。
ヌーソロジーの考え方は外面に知覚されるものがどのように認識として成り立ってくるのかではなく、「ナニガソレヲサセテイルノカ」という、その「サセテイルモノ」側の構造を問題にする。それによって、表象次元から出る思考を行うわけだ。そして、それが素粒子構造に繋がっているという考え方をする。
さすがに大学ではそこまでは話せないが、ここに示している「コミュニオン」とはそうした超越論的無意識におけるコミュニケーションのことを示唆したものだ。要は、キリストの血と肉——未だ明かされたことのない未知の共同体。それが「存在」だ。
1月 27 2023
コンピュータビジョンVSリアルビジョン
OCOT情報では自然が生成するものとテクノロジーが生成するものとは方向がまったく逆だと言います。
代表的なものとしては、太陽の核融合と人工核融合。原理は似ているように見えてもまったく違うものだということです。物質だけで見ていては決して分からない何かがここにはあるのでしょう。
哲学者のハイデガーもまた、こうしたテクノロジーのことを「挑発」と呼んで、生成(ポイエーシス)とは区別します。人間の生活に役立つよう、その用立てのために自然を挑発する行為、とでも言いたいのでしょう。そして、この用立ての体制をゲシュテル(集-立)と呼んで強く批判します。彼はテクノロジーの中に何を見ていたのでしょうか。
ゲシュテルには「骸骨」の意味もあります。このゲシュテルが支配していくところには最高度の危機が訪れると言うんですね。ただ、この”危機”は科学テクノロジーが自然破壊をもたらすからなどといった単純な理由ではありません。ハイデガーはゲシュテルが真理の輝きと働きとを偽装するからだと言います。
主観と客観の間に「物」があり、近代以降、その主観と客観の関係に転倒が起こったとすれば、その間にあった「物」の場にも転倒が起こったのかもしれません。近代以降、単なる対象と化した物の場にこれまた転倒した擬似的生成の場が重なり合ってくる。テクノロジーとは、おそらく、そのような場の力で成り立っているのでしょう。
そして、この話には続きがあります。OCOT曰く「人間の最終構成」においてはさらなる転倒が起こると言います。それが21世紀になって台頭してきたデジタル空間のことです。この空間は他者の他者として自己をアイデンティファイしていた近代的人間が、そのまた他者へと堕していくような次元です。メタバースにおけるアバターのようなものでしょうか?
「人間の最終構成」とは付帯質の内面(物の内部)へと人間が戻って行く契機のことを言うのですが、同じ「物の内部」と言っても、そこには二つの方向性があるということなのでしょう。コンピュータビジョンとしての4元数空間の中へと入るか、リアルビジョンとしての4元数空間の中へと入るか。私たちに許されたこれからの未来の選択は、おそらくこの二択です。
いずれにしろ、今起こっていることは、私たちが住み慣れた近代的空間の二つの方向への引き裂きだと思います。人間という概念は近代の産物ですから、近い将来、人間はいなくなっていくということですね。
これからは、デジタル空間の肯定的使用というのがカギになってくるのでしょうね。リアル空間(現実界)の反映物としてデジタル空間を使用するということ。そのためにはリアル空間が見えていないとダメで、ヌーソロジーはそのリアル空間を浮上させていく作業のようなものです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ハイデガー