12月 22 2022
まずは世界観の変革を!!
世界観の変革→自己意識の変革→社会意識の変革というのがヌーソロジーが予見しているこれからの時代変化のプロトコルなのだけど、逆に言えば、これは世界観が変わらない限り、社会は何一つ変わらんだろうな、という諦念の表明でもある。
もちろん、ここで言ってる世界観の変革とは世界のイメージを存在そのものの方向へと反転させるということを言ってるのだが、僕の頭の中では、それができて初めて自分自身を存在としての”自己”へと同調させていく道標が立つ。
社会が変わるのも、そのような”自己”たちがたくさん現れない限り不可能だろうと思ってる。バタイユの言葉で言うなら、「聖社会」の到来以外に、社会の変革などといったものはどこにも存在しておらず、それは常に何某かの権力が支配する旧態依然とした社会であることに変わりはないということだ。
まぁ、当たり前の話だが、聖社会が到来するためには、その前に聖なる自然と聖なる自己が登場する必要があるということ。しかし、自然の何が神聖なのかさえも僕らはわからなくなっている。少なくともそれだけは取り戻す世界観を作りたいものだ。
「ヌーソロジーの見る未来」 ― Nature (ネイチャー) から Physis (フィシス) へ ― noosclip
12月 26 2022
女性の声でつむがれるヌーソロジー
音読さんにTwitterの呟きを読ませてみました。
タイトルは「存在をイメージできるようになるために」。難しい内容も、女性の声で流れてくると、分かった気になる感じがする・・・しないか(笑)
内から外へと世界が生み出されている。そういう目でまずは外の世界を見ることが大事。そうすれば、必然的に私たちの問いは存在論的なものへと変わっていく。つまりは、自分という存在への問いと、世界とは何かという問いが一致をみるということ。それが正しい問いの立て方。自分なしにただ外への問いを立てても、答えは永遠に出ない。
OCOT情報がいう「認識の完全化」とは、そのような問いかけのもとに、一つ一つ答えを見出していく作業のことを言っている。哲学的にいえば、それが「存在になる」ということだろうと思う。
ハイデガーは時間の本質を”脱自”として考えた。ここには”内なる自分から脱け出た自分”という意味がある。そしてハイデガー はそのような自分のことを本来的な自己として、自己自身か時間であることを示した。そして、その時間が外を出現させている。「ある」ということの真の了解とはそういうもの。
外→内→外。
何度も言っているが、この円環を見えるようにしなければならない。最初の外と後の外はまったく違うもの。この二つの外が一つに結ばれるとき、自分自身が時間であるということが覚知される。OCOTはそのことを「位置の等換」という言葉で表す。
ハイデガーがなぜあれほど「物を対象化すんなよ」と言っていたか、その意味がわかるよね。それだと内→外どころか、最初のステップの内さえもよく見えない。要は”対象化”とは存在を介入させないための結界のようなものなんだよ。自らが存在への侵入を拒絶しているようなもの。それが自我でもあるわけ。
https://www.facebook.com/100003381888821/videos/785986499343522/
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ハイデガー