4月 27 2017
宇宙卵の孵化について
真の奥行きの意味を昔懐かしの簡単な図で示しておこう(下図参照:1997年刊『人類が神を見る日』での掲載図より)。
この図に描かれた鉛筆の方向は今は「時間」とされている。その設定が原点を局所的なものにしている。この方向が持続軸へと変態を起こしたとき、原点は非局所となり、そこに外的中心を持った真の空間が姿を表す。
このとき、鉛筆は物質粒子のスピンへと姿を変える。
人間が時空(幅の世界)を通して世界を見る時代は実はもう終わっている。幅の世界には一つの真実もないことを徐々に多くの人が知るようになっていくだろう。まだまだ時間はかかるが、宇宙はすでに自身の秘密を明かす方向に反転を始めているということだ。
この新しく立ち上がってくる空間にまだわたしたちは具体的な風景を持つことができないでいる。しかし、ひとたびその空間感覚への感応が生まれてくれば、劇的な速度でそこで活動する空間組織への結晶化が開始されていくのではないかと思う。この変化は「空間卵の孵化」と称しても決して大げさではない。
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持続と延長の転倒は非局所と局所の転倒に同じ。持続空間においては目の前は常に同じ位置であるにもかかわらず、それを延長空間でしか見れないものだから違う位置だと考えてしまう。それが奥行きと幅化した奥行きの違い。たったそれだけのこと。
奥行きの空間で世界で構成し直せば、自然に霊性が活動している超越論的なものの世界へと認識が展開していく。そこに見えてくるものがカタチ。大きさも歪みもない純粋なプラトン立体の世界。
それを局所的認識で表現しようとしているのが量子論の世界。
時間ではなく、持続(流れない時間)で空間を満たして行けば、世界は自然に実体の世界へと移行し、そこに精神と物質が一致した実体のアーキテクチャが構成されていく。
このアーキテクチャが生まれることによって時間と空間(これもまたローカルなアーキテクチャにすぎない)の支配力は減衰し、そこに物質認識に変わる新しい知覚様式が芽生えてくる。宇宙のコントロールはそういう筋書きで進行する。
そういう空間がここかしこに生まれてくれば、人間のおしゃべり(表象知)は自然に勢力を失い、一切の諍いの元は絶たれ、尊敬-侮蔑、愛好-嫌悪にも人々は興味を失っていくことだろう。
と言って、情動を失うわけじゃない。そこには未知の空間感情というものがあるにちがいない。しかし、それを表現する言葉をわたしたちはまだ持ち合わせてはいない。
6月 28 2017
なぜ奥行きの発見が重要なのか
僕らが持った世界観の一番の問題点は、世界を見る眼差しが一般化してしまっていて、自分を一般/特殊の関係(人類と人類の中の「自分」という個別性)の中でしか捉えることができなくなっているところにある。これは経験から立ち上がってきた関係性だから、そうした見方の中では、いつまで経っても創造的な領域には出ることはできない。
ほんとうの世界はそうはなっていないんだよね。それが量子論が差し示している「非可換」という概念の本意なんだ。非可換とはAB=BAが成り立たない世界のことを言う。つまり、AB-BAがゼロにならない世界のこと。
意識との関連で普通、量子論が話題になるときは、「量子は粒子でもあり波動でもある」とか、「時空を隔てていても繋がってる」とか、そんな話が真っ先に上がるわけだけど、一番大事なことは、この非可換性。「すべてが一つ」とか言って、この非可換性について語らない量子論スピは危ないから、気をつけて(笑)
奥行きの発見がなぜ大事なのかというと、奥行きがこの非可換性とダイレクトに関係しているからなんだよね。
どういうことかと言うと、奥行きは特異なもの(単独性でもいい)であり、他のそれとは決して交換できるものではないということ。ここに尽きるね。哲学者のメルロ=ポンティが生涯、この「奥行き」にこだわって思考し続けた理由もそこにあるんだけどね。
僕らは普通、奥行きに幅(距離)をもたせて空間をイメージしている。奥行きに距離を持たせてしまうと、「見ているもの」は単なる肉体になってしまう。最初に言ったことだね。そういう考え方をしてしまうと、奥行きは単に僕の目の前にある距離というかたちで、一般性の中の個別性になってしまう。これは時空の一部だから、他者のそれと変換が可能だ。あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見えるはずだ、という思い込み。物理学的には、それがローレンツ変換というものに対応している。時空上の座標の変換を行うわけだね。
実際、過去の哲学者たちの多くも、自分の眼差し(奥行き)をそのようにしか扱っていない。真正の奥行きが持つ「単独性(特異性)」というものがよく意識化できていないんだ。
実は、この距離としての奥行きの下に、一般性/特殊性を逃れた特異性(決して交換できないもの)の眼差しというのが存在していて、それがヌーソロジーが「真正の奥行き」と呼んでいるものだと思っていただければ、と思う。
じゃあ「それは何処に?」ということになるわけだけど、それが無限小の複素空間という場所にある、と言ってるわけだね。いつも言っている、奥行き=虚軸とはそういう意味。奥行きに距離が見えないのも、奥行きが射線そのものとしてミクロに入り込んでいるからであり、その入り込みが君自身の精神(持続)そのものの有り様だと言っているわけだ。
で、その世界では、最初に言った非可換性というのは[x,p]= xp-px = i(h/2π)というかたちで現れる(物理学では位置xと運動量pの交換関係という言い方をします)。xは幅、pは奥行きと考えていい。つまり、幅が先行するか、奥行きが先行するか、その両者の間にはi(h/2π)という差異があるということ。このi(h/2π)の「i」とは虚軸なわけだから、ここに現象が立ち上がっていると思うといいよ。そこから、幅側に落ちるか、奥行き側に止まるかは、君次第ということになっている。まぁ、もっとも人間の場合は全員が幅側に落ちてしまっているわけだけど。
この場所は、もはや特殊性(経験的自我)の居場所でなく超越論的なものの場だ。超越論的なものの場とは、経験的な意識を成立させている(無意識的な)諸条件を形作っているところと考えるといい。語弊はあるけど、「ほんとうの君がいるところ」と言った方が分かりやすいだろうか。
それが見え出すと、時空は受精卵さながらに卵割を開始する。いや、これは比喩じゃないかもしれない。実際に受精卵が卵割を行って胚珠へと分化していく力は、人間の意識がほんとうの奥行きを発見していることと深い関係を持っている。
でね、時空という一つの領域が、卵割を始めると、次のような配置を取ると思って欲しい(下図参照)。
この図は、自己と他者が自分の真正の奥行きを発見して、奥行きと幅を虚軸と実軸に見なしたときの関係と思ってもらえばいい。
この二つの円は平面上でどう回転させようが決して重なり合うことはない。このことの意味をじっくりと考えてみて欲しいんだ。つまり、「あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見える」というのは全くのウソだということ。
一人一人が見ている宇宙は実は全く別物であるということを、この二つの複素平面の関係は物語っているんだ。
時空からのこの分離を意識化するところから、超越論的なものの意識(これも語弊があるけど、とりあえずは高次の自我意識と言っていい)への浮上が始まっていく。
右側の複素平面を右に90度回転させると、すぐに分かると思うけど、この二つの複素平面はいわゆる複素共役関係(虚軸の関係が互いに逆になっているということ)にある。数学では、複素共役は複素数を消し去り、実数だけの世界にしてしまうよね。それは自己と他者を一般性の空間に投げ込んでいることの数学的表現だと考えるといい。単なる数学操作なんかじゃないってこと。
今の社会は実数の世界しか知らないから、「おまえの代わりなんかいくらでもいるんだぞ~」とか言って、一人の人間をまるで物体のように扱う。時空と物質だけで世界を考えていると、必ずそういう「我-もの」の関係でしか他人を見れなくなるんだね。
「バカヤロー、オレにだって心というものがあるんだ!!」と叫んだところで、誰も聞いちゃくれない(笑)。
しようがない。世界の見方が歪んでいるから。だって、どんな人でも程度の差こそあれ、「我-もの」でしか世界を感じ取れなくなっているから。真正の奥行きが消え去った空間で生きているからどうしようもない。ここにはブーバーがいうような永遠の〈我-汝〉は現れようがないんだね。
さて、奥行き=虚軸、幅=実軸という考え方で、物理学の世界を探査していくと、そこはもうほとんど超越論的なものからいかにして経験的自我が生まれてくるか、その仕組みの精妙な見取り図のように見えてくる。つまり、人間の経験的自我を超越論的に条件付けているものが、実は物質の基礎である素粒子になっているということが分かってくるということだね。素粒子は物質なんかじゃないんだよ。とにかく、その認識が必要。
そこで、当然、次のような疑問が湧いてくる―じゃあ、素粒子から作り出されているこの大自然って一体何よ?
いいこと、聞くねぇ~。そう、その方向に「未知」を見よう。そして、その方向に世界を感じ取っていこう。言葉が古めかしく聞こえるかもしれないけど、それが古人(いにしえびと)たちが霊界と呼んでいた世界なんだ。
そして、そこは、生きながらにして入ってもいける。素粒子というものは、その入り口になっていると思うといいよ。
今回は長文すぎたね。ごめん。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: メルロ=ポンティ, ローレンツ変換, 奥行き, 量子論