7月 16 2008
時間と別れるための50の方法(20)
●身体空間の奪回に向けて
しかし、頭ごなしに3次元の球空間を一本の線分として見ろ、と言われてもなかなか納得がいかれない方も多いかもしれません。ここはおそらく概念の肉付けがまだ不足しているのです。レクチャーでもつねづね言ってきたように、概念(conception)とは、その語源から言って孕む(conceive)ものでなければなりません。何を孕むのかといえば、それは身体的感覚です。
もちろん数学や幾何学にもそれぞれ固有の概念はありますが、それはあくまでイデアの転倒した姿である理性としての概念であり(精神世界でオリオンの暗黒面と呼ばれているものに当たると思われます)、こうした転倒のロゴスには身体感覚としての受肉が存在していません。
この転倒を再度ひっくり返してイデア本来のイデア、すなわち、ヌース(第一知性)がその知の対象とする創造的なイデアへと変身させるためには、理性(種子=ロゴススペルマ)を感性(母胎=マトリックス)へと着床させる必要があるのです。概念を真のイデア(理念)として孕みたいのであれば、ここはモノから広がる3次元の球空間が文字通り一本の線として見えてくるような感覚的一致を身体感覚の中で構成する必要がでてきます。
モノから広がっているように見える3次元の球空間を一本の線分のように見て取る身体感覚………果たしてそれはどのようなものなのでしょうか。
ここで次のような思考実験をしてみましょう。
今まで、ψ3~ψ4の球空間の在り方を説明するために、皆さんにモノの周りをさんざん回ってもらいました。しかし、ここで、モノの回りを「わたし」が回っているという認識を逆転させて、実は「わたし」の方は不動で、モノを中心とした3次元空間自体の方が回っているのだと考えてみるのです。運動が常に相対的なものであるならば、そう考えても一向に差し支えはないはずです(下図1参照)。
もし、空間側が回っていると考えるなら、ψ3とψ4として構成されてくる球空間は、モノから背景空間に突き抜けていると思われる視線と、モノからわたしの顔面に向けられた想像的な視線の中に構成されているものであり、結局のところ視線とそっくりそのまま一致してくることが分ります。特にモノからその背景へと突き抜けていった視線が形作っているψ3の球空間の方は、今までお話してきたように、その数学的性質から言って時間がない(虚時間)世界だと考えてよいわけですから、ここで起こっている空間の回転という運動の表象がもたらす時間の経過を考慮する必要がありません。20世紀初めのキュビストたちが見出したあの空間のように(ピカソ『泣く女』参照)、ここではモノとしての表象はその周囲のあらゆる方向からの見えを綜合させたかたちで無時間的なモノ、つまり主観的な概念としてのモノとして存在させられています。
そして、このようにして構成された空間にはただ視線という線が存在しているだけです。つまり、このことは身体を起点とした側における空間から見た場合、ψ3におけるモノから広がる3次元の球空間は「視線」と同じものと考えてよいということになります。
一方、ψ4の球空間側の方はモノの手前に眼球という「モノ」を想定させられているので(ψ4が鏡像から派生していたことを思い出しましょう)、「まさにその中でモノが見えるということが可能となっている」実存としての線分(主観線)を、単に3次元空間内部の線(客観線)としてしか見て取ることができません。つまり、ψ4の球空間側ではモノと「わたし」を結んでいる視線が3次元空間内部の線概念と同一化させられてしまっているわけです。モノがモノを見ることなどたぶんできないと考えられるので、こうした空間の中で捉えられた眼球はモノを見ることなどおそらくできないでしょう。
その意味で、モノが見えるということ、言い換えれば、世界が目の前に開示している現象(phenomenon)というのは、それ自体が3次元空間からは完全に差異化した4次元空間で起きている出来事であり、この差異に気づけていない光ならざる認識がその差異自体を時間の経過として感じ取ってしまっているのです。時は流れず、されど流れゆく時。絶えず「今」であるにもかかわらず、瞬間という名の別の今が今の中を点滅する回転計のライトのように流れて行く。このように「人間」とはその不動と動の間に立ち起こっているパラドキシカルな出来事なのです。
ここで、「いつでも今(差異化の起こっている位置)」と「瞬間(3次元との同一化が起こっている位置)」の関係を前回示した図の中で比較してみると、下図2のようになります。
差異化した位置はψ3の球空間が形作る球面を点と見なし、その点は必然的に3次元空間上の無限遠点となり実存的な位置(わたしが世界に「いる」という持続感覚をもたらしているもの)を形成します。一方、3次元空間に同一化した方の位置はψ4の球空間が形作る球面上の一点に固定され、時間の流れの中に投げ込まれた3次元空間上の想像的位置(物質的肉体として「わたし」が「ある」という感覚をもたらしているもの)を形成します。
以上のような考察から次のようなことが言えそうです。
4次元空間における線分とは見ることそのものを構成する実存的視線のことであり、4次元時空における線分とは見られることそのものを構成する想像的視線のことである。そして、前者は光そのもののことであり、後者は光のかけらのことである。光のかけらを拾い集めて光を作り、そして、今度は光を束ねて、光の幹を作り、そこで伸びゆく光の樹木を天上の太陽にまで育て上げること。
ヌース理論が目指す次元観察子の創成は、その意味では、古代におけるグノーシス者たちの身振りとも言ってよいものなのです。——つづく
9月 5 2008
時間と別れるための50の方法(34)
●第二のモナド
次元観察子ψ5~ψ6の描像は、その描像だけとっていえば極めて簡単なものになります。ψ3~ψ4でモノが果たしていた役割を、今度は「わたし」の身体に置き換えればいいだけです。つまり、『人神/アドバンストエディション』にも書いたように、わたしの身体の前方に延びていると想定される線をグルっと回転させ、そこに生まれている線を綜合したところに概念化される球空間(正確には3軸での回転を行なう必要があります)、これが次元観察子ψ5となります。そしてその反対に、わたしの背後方向に想像されている線を同じくグルっと回転させたところに概念化されている球空間、これが次元観察子ψ6となります(下図1参照のこと)。しかし、次元観察子のψ3とψ4を「等化」した空間が、なぜわたしの身体の周囲の空間となるのでしょう?まずは、その理由について少し説明してみます。
ψ3とψ4の球空間が等化されるためには、ψ1~ψ2をψ3として等化したときと同じように、その形作る球面が外面=内面、内面=外面というような捻れを持たなくてはいけません。しかし、ψ3とψ4の球空間を限界づけているところは無限遠点ですから、単なるモノの表面が作り出している球面のイメージを反転させてイメージさせても等化には至りません。無限遠点自身自体が内面と外面を捻るような捻れを持っている必要性が出てくるのです。さて、このような捻れを意識に形作るにはどのような思考を展開すればいいのでしょうか。
まずは、ψ3の球空間の内壁をイメージしてみましょう。これはモノを原点として広大な広がりの果てに「見える」天球面としてイメージされるはずです。そのとき、その天球面を主体の位置と見なせば、それはもう無限遠に到達したことになると考えます。なぜなら、単なる物質的な運動のイメージではどうしても到達することのできなかった「無限遠」という位置に「主体の位置」という差異をはめ込んで3次元の限界を飛び越えたからです。この措定を3次元という概念が持つ同一性からの跳躍と考えましょう。そして、以前お話したように、この-∞への方向の無限遠が形作る球面をそのまま「点」と見なして下さい。言葉遊びにすぎませんが、実のところ転すれば天とは点でもあるということです。なぜ天を点と呼べるのかというと、ψ3の球空間の内壁上のどの方向を取っても「わたしの身体の前方」という意味ではどこも同じ方向になっているからです。身体の側から主観的に世界を見た場合、それは、わたしの「前方向」という直線上の「1点」でしかないというということが分かります。例の面点変換という概念です。ここは少々分かりづらいかもしれませんが、僕らは「前」でしか世界に接してないのだという考え方をしているわけです。
さて、ここで、このとき見えている天球面の「裏面」について考えてみましょう。これはψ3の球空間の内壁(人間の外面)の裏側に当たる部分ですから、ψ4の球空間の内壁(人間の内面)に当たります。人間の内面であるψ4の球空間の内壁は、観測者にとっては自分の背後方向のはるか彼方に想像されているものでした。そして、この方向は「後ろ」ですから、この内壁は決して「見ることができない」天球面になっています。しかし、たとえ見えなくてもこの天球面は「身体における後方」という意味で、さきほとの「前方向」同様に、主観的な空間に立てばどの方向をとっても「後ろ」という名の同じ方向性だと考えることができます。
このように考えてくると、結局のところ「ψ3とψ4を等化している空間」というのは「身体における前方向と後方向とを等化している空間」と同じ意味だということが分ってきます。前を後にする方法は簡単です。今度は観測者自身が自分の主観的な空間の中でグルっと自転すればいいだけです(ここで、身体を自転させても前は前だろ、と考える人がいるかもしれません。それについては後でまた説明します)。このとき、自転の軸は当然、x、y、zの三つが出てきますが、この三軸を使って自転したときに形成される空間の綜合が次元観察子ψ5ということになります。
このことは何を意味しているかというと、主観的な空間において認知されている身体の位置というのは、実際は、客観的な空間における+∞としての無限遠点と-∞としての無限遠点の重合点、つまり、ψ3とψ4が形作っている球面の捻れの位置そのものになっているということを意味しています。そして、観測者自身の自転によって形作られているこの球空間(これを知覚正面と知覚背面を等化した球空間という意味でこれから知覚球体と呼ぶことにします)の奥行き方向もまた知覚的事実として一点同一視されていて長さというものをほとんど持っていないわけですから、人間の内面認識においてはミクロの微小空間内に点状の微粒子状の存在として現れることになるはずです。
次元観察子ψ5が知覚球体であることが分ると、次元観察子ψ6はその反転空間なわけですから、自ずとその正体を明らかにしてきます。そうです。冒頭にも書いたように、それは観測者の背後方向への延長を半径とする球空間です(ψ5同様、x、y、zの三軸で回転したときの綜合による球空間と考える)。しかし、こちらの球空間は無限遠が視覚としては生じてはおらず、想像上、概念化された正体不明の遠い遠い場所になっているので、文字通り、延長概念によって象られた広大な球空間になってしまいます。これが正式な意味での局所的時空です。
皆さんも、以上の説明を頭に入れて、実際にその場で回転して次元観察子ψ5とψ6を意識に構成して見るといいでしょう。大きな大きな宇宙空間の中心に、小さな小さな粒のような宇宙空間がくるくる回りながら入り込んでいるのが容易に感覚化されてくるはずです。――つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 5 • Tags: モナド, 人類が神を見る日, 内面と外面, 無限遠