3月 18 2009
ヒトの精神構造としての太陽系(3)
さて、太陽系における内惑星系を個的意識発達の元型構造、外惑星系を類的意識発達のそれとして、そのおおまかなラインをヌーソロジーの観点から俯瞰しているわけだが、第9惑星の冥王星(現時点では準惑星)とその反映者として想定される第10惑星X(現時点では未発見)のペアが形作る次元の俯瞰には、心理学等で用いられている意識発達の概念を大幅に逸脱、超越する概念を取り込む必要性が出てくる。それがヌーソロジー特有の「交替化」という概念である。『人神』にも書いたと思うが、この交替化という概念の根底には「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」という古代中国の太極的思考のように、万物は陰陽の役割を常に交替させていくことによって絶えることのない前進を続けて行くという考え方が含意されている。ヌーソロジーが「人間の意識進化」と呼ぶものは、この交替化の概念によって必然的に仮定されてくるものであり、それはダーウィン的な無目的な進化概念ではなく、明確な目的を持った弁証法的運動として捉えることができる。占星学において冥王星が死と再生の象徴とされているのも、冥王星自体が人間の終焉と新たなる復活という責務を担っているからなのだろう。
交替化とはOCOT情報では「次元の交替化」もしくは「定質と性質の交替化」と呼ばれるもので、これは現在、僕らが自己と他者と呼んでいるそれぞれの意識場をそっくりそのまま入れ替える作業のことを意味している。つまり、ヌーソロジーが用いる次元観察子という概念で言えば、自己側の次元観察子ψと他者側の次元観察子ψ*との対称性を形作ることのできる精神の形成を意味するということだ。次元観察子はψ側とψ*側とでそれぞれ14個づつ存在させられており、ψ側とψ*側では奇数系(等化の流れ/青の矢印で示されている)と偶数系(中和の流れ/赤の矢印で示されている)の関係性が逆になって構成されている。ということは、必然的に、交替化の運動が開始されると偶数系だったところが奇数系*に変換され、奇数系だったところが偶数系*に変換されていくことになる。この変換の連鎖がいわゆるヌーソロジーが「顕在化」と呼んでいる作用である。
奇数系の観察子は観察子が形作る空間の差異のシステムに気づいており、その差異の認識を所持しているからこそ等化という統合の作業を可能にしていく。一方、偶数系の観察子においては空間の差異は相殺されて見えなくされており、平板化した時空という名のもとに一様、均質な空間認識として存在させられている。人間の意識に起こる顕在化とは、その意味で、空間に差異の系列を与えていく作業となる。
ここで今一度、Ω9の天王星とΩ10の海王星の働きをヌーソロジーがどのように意味付けしたかを再確認しておこう。天王星は人間の意識に偶数系の観察子を先手に取らせ、外在空間という一見、一様に見える空間の中に人間の意識を叩き込む機能を持っていた。一方の海王星はその空間に潜む差異の系列を人間の無意識にしっかりと保持させており、人間の意識に進化への方向を忘却させないように陰ながらの変換を行っている。今までこのブログで何度も語ってきたように、実質的にはこれらの空間構造の違いはいわゆる時空と物理学が内部空間の構造として解釈している素粒子構造として現象化している。つまり、海王星とは人間にとっての意識活動の場所性となるコーラを提供している本源力と考えられるわけだ。土星が時空(時間)の本質ならば、天王星は重力そのものの力として時空に突き刺されたファルスという言い方もできるだろう。精神分析的に言えば人間に宇宙的生成能力を持たせないように去勢しているわけだ。
こうした対照的な働きを持つ天王星と海王星を等化させてくるのが冥王星の役割だと考えられる。であるから、当然、冥王星は天王星が持った働きと海王星が持った働きを相互変換してその対称性を形作る精神の働きをもち、天王星の力によって反動的生成を行っていた人間の意識活動を宇宙的生成の領域へと連れ出して行く働きを持っていることになる。ニーチェ風に言えば、これは価値転換の境位をもたらしてくる永遠回帰の象徴力である。OCOTがなぜ自らを冥王星の意識体と名乗ったのかという理由がここで明らかになってくるのではないだろうか。
「オコツトトハ、メイオウセイニカンヨスル、シリウスノチョウセイシツデス。コノコウシンハ、スベテ、シリウスカラノソウサニヨッテ、オコナワレテイマス。シリウスノ地球人ヘノ関与ハ、メイオウセイノ近日点通過時カラ始マリマシタ。太陽系ノ最終構成ノタメニ、地球人ノ意識ニ進化ヲ生ミ出スコトガ、ソノ目的デス。シカシ、プレアデスガ作ル強力ナ付帯質シールドノタメニ、アナタガタノ意識ガ働イテイル位置ニ、ハーベスト・ビーコンヲ焦点化サセラレズニイマス。」(『2013: 人類が神を見る日/アドバンストエディション』p.22)
OCOTは人間の意識が顕在化を起こしていく領域のことを「シリウス」と呼んでいるが、ケイブコンパス上の意識流動の構成から見て、冥王星とシリウスが極めて深い関係にあることもここで朧げながらも見えてくる。
——ケイブコンパス上に冥王星と惑星X
冥王星と惑星Xは内惑星系で説明した太陽と火星と同じく、前半部と後半部で二つの異なった働きを持っている。
■3、大系観察子Ω11~Ω12前半………冥王星と惑星X(真実の人間における定質と性質)
●冥王星=Ω11前半………ヒトの精神の等化
ヒトの精神の対化の等化を行う(ヒトにおける「精神の等化」という)。ヒトの精神の対化の等化とは大系観察子のΩ7とΩ*7を同一化させるという意味で、Ω9のヒトの思形によって働かされていた人間の意識の領域であるΩ8(Ω2→Ω4→Ω6→Ω8)をΩ*7(Ω*1→Ω*3→Ω*5→Ω*7)へと変換させていくことを意味する。図7からも見てとれるように、これは他者側においての人間の意識に顕在化を起こさせる力となっているのが分かる。先手として働いていた人間の内面の意識の流れを外面*の意識の流れを先手側に持つように変換し、新しい次元におけるヒトの精神を形作っていくということである。ヒトの意識が意識進化によって新たなヒトの次元を創成させるという意味では、冥王星は人間の意識の覚醒を二度経験した力とも言える。つまり、冥王星は二度目のヒトの次元の生成を行う力となっているということだ。ヒトの対化を合わせ持っているという意味で、冥王星が作り出す次元は「ヒトの総体」とも呼ばれる。
●惑星X=Ω12前半………ヒトの精神の中和
ヒトにおける精神の等化が対化として生み出されたときに、その相殺で付帯質として生み出されてくるもの。覚醒期においても覚醒を行うことができない人間の意識次元の総体性を意味すると考えてよい。Ω8とΩ*8を合わせ持った次元。Ω10のヒトの感性によって働かされていた人間の無意識領域であるΩ7(Ω1→Ω3→Ω5→Ω7)をΩ*8(Ω*2→Ω*4→Ω*6→Ω*8)として顕在化させていくことを意味する。
■4、大系観察子Ω11~Ω12後半………冥王星と惑星X(真実の人間における定質と性質)
●冥王星=Ω11後半………真実の人間の定質
反対側の次元における思形=Ω*9を作り出すことによって、新しい人間の意識次元を作り出す働きを持っている。精神の進化はこれによってヒトの思形と感性(Ω9とΩ10)を等化し、次元総体(次元の対化)を支える定質の力となる。このΩ11の全体性を真実の人間の定質と呼ぶ。
●惑星X=Ω12後半………真実の人間の性質
反対側の次元における感性=Ω*10を作り出すことによって、新しい人間の意識次元の方向性を潜在的に変換する働きを持っている。これによってヒトの思形と感性(Ω9とΩ10)の中和が生まれ、次元総体の反映を生み出すことになる。このΩ12の全体性を真実の人間の性質と呼ぶ。
7月 3 2009
空間を哲学する——対話編その3
●記憶が存在する場所
半田 視覚的にはモノの存在は常に前において確認されているのだけれど、問題はモノが目の前に見える、モノが目の前にある、というのはどういうことかを考えなくちゃならない。
藤本 はっ?一体何を言ってるんですか?
半田 モノがあるという認識がどうして意識に可能になっているのかってことだよ。
藤本 それはさっき言われましたよね。言葉じゃないんですか。モノが名を持つことによって認識されているということじゃないんですか?
半田 悟性的にはそうだね。でも、感性的には違う。言葉を知らない赤ん坊でもおそらくモノの存在を直観しているはずだ。その証拠に、母親が笑顔を作ると赤ん坊も笑顔で応えるだろ。そこに何かが存在しているという認識の前提に直観があり、直観が意識に成り立つための最も重要な要素は記憶じゃないかと思うんだ。
藤本 「ある」という認識は記憶がもとになっているということですか………。
半田 うん。知覚自体は言ってみれば現在の切り取りでしかないよね。今、この灰皿を見たとしても1秒前の灰皿はもうそこには存在していない。1分前の灰皿や1時間前の灰皿について言えば尚更だ。それらはいわゆる過去に飛び去ってしまっていて、今、現在、この瞬間にはもうそこにはなくなってしまっている。だから知覚だけでは灰皿が「ある」という持続状態を意識することはできない。つまり、灰皿はあり続けているからあるのであって、この「あり続けている」という認識には当然のことながら知覚されたものが記憶として継続してなくちゃならない。
藤本 なるほど、面白いですね。普通、僕らはモノは自分の意識とは無関係に外の世界にあるものだと思っている。人間がいなくたって外の世界は太古から存在していたに違いないと考えていますよね。このような捉え方だと記憶はモノがあるということに対して従属的な関係を結んでいることになります。とにかく外の世界は人間の意識とは無関係にあり続けていて、そのあり続けている世界を意識で想起したときの知覚が「記憶」と呼ばれている。こういう考え方では、世界があり続けていることと記憶は全く別物になってしまう。でも、ヌーソロジーでは人間が持った記憶自体が「ある」ということを支えている力だと言ってるわけですね。
半田 うん、全くその通りだね。もっともこれはヌーソロジーというよりもベルクソンという哲学者が言っていることなんだけどね。つまり、何が言いたいのかというと、物質が存在しているという認識自体が実は記憶だということなんだ。物質が無条件に外在世界にあって、それを人間が知覚してその記憶を所持しているのではなくて、物質があるという認識が意識に起きていること自体が実は記憶だということなんだよ。いやもっといっちゃうと物質自体が記憶と言ってもいいね。記憶というのは僕らの一般の感覚では内在の働きだよね。だからベルクソンはこうした内在の息がかった物質のことを外にあるとされる従来の物質概念とは区別してイマージュと呼んでいるんだ。だから、ベルクソンにとってみれば宇宙が存在するといったとき、それはイマージュの総体を意味している。
藤本 わぁ、なんかそう聞いただけで、宇宙自体が自分自身みたいな気がしてきますね。世界があるということ自体が一気に自分の内なる広がりのような気分になってきます(笑)。
半田 だね(笑)。ベルクソンのねらいもそこにあったと思うよ。このイマージュという概念は19世紀までの哲学が引きずっていた旧態依然とした主体と客体の二項対立を解消するためのベルクソンなりのキーコンセプトなんだ。
藤本 ん~、確かにそう考えると主体と客体を分離して考えることなんてできなくなりますね。概念にパワーがあるなあ。天才的閃きですね。
半田 うん。すごいよね。
藤本 で、そのベルクソンのいうイマージュというものがヌーソロジーとどう関係してくるのでしょう?
半田 イマージュという概念はそれまで主体サイドの働きと考えられていた記憶という作用を客体サイドの物質に重ね合わせることによって、主体の居所を対象側に移設しようとする試みだと言えるんだけど、ヌーソロジーは単に対象だけではなく対象の背景空間についても考えないと、このベルクソンのいうイマージュという概念に論理的な整合性を持たせることは難しいのではないかと考えてるんだ。実際、ベルクソン哲学のことを神秘主義的だと言って批判する人たちも多くいるしね。
藤本 対象の背景空間についても考える?
半田 そう。つまり、僕がさっきから「前」と呼んでいるやつだね。対象の存在は確かに「前」で確認されている。でも、その「前」は対象だけじゃなく対象の背景空間も含んで初めて「前」と呼べるってことさ。
藤本 半田さんがいつも言ってるモノは図と地の関係によってしか認識できないというゲシュタルト心理学の内容のことですか?
半田 もちろんその意味もあるけど、ここでいうモノの背景空間というのは「前」という方向が持った空間の奥行きについて言ってると思ってほしいんだ。
藤本 奥行き………。
半田 一言で言えば、「奥行きこそがイマージュの源泉である」ってことかな。
藤本 奥行き………がイマージュの源泉?
半田 うん。さっきも言ったように目の前にモノがあるという認識はベルクソンの言い方を借りれば必ず幾ばくかの時間の経過を含んでいるということになるんだけど、この時間の経過を漠然と記憶や持続という言葉で観念的に説明するのではなく、その時間の経過がどこにあるのかを知覚を通して論理的に探索してみると、どうしてもモノの背後にある奥行きの中にあるんじゃないかって思えてしまうんだよね。
藤本 時間の経過がモノの背後としての奥行きにあるってどういうことですか?
半田 藤本さんはアインシュタインの相対性理論に出てくる時空という概念は知っているよね。
藤本 ええ、多少は。時間と空間は別物ではなく4次元の連続体として一体になっているってやつでしょ。
半田 ご名答。僕らはアインシュタインが現れてもう百年以上も経つというのに、空間や時間に対する見方は実際のところ相変わらずニュートン的で、空間は3次元で、それとは別に時間が刻一刻と流れていると考えている。つまり、時空一体として空間や時間を見ることにまだ不慣れなんだよね。しかし、時空としてこの空間の広がりを見れば、それは遠くに行けば行くほど過去になっているということになる。
藤本 ええ、半田さんも『人類が神を見る日』で書かれていましたよね。視覚的な情報は光で運ばれてくるわけですから、遠方から情報が届くまでに時間を要するということですよね。たがら、100万光年彼方に見えるアンドロメダ星雲は今現在のアンドロメダ星雲ではなく100万年前の姿になっている。
半田 そうだね。科学者たちがブルーバックスなんかで一般人向けによくやる説明だよね。しかし、これは極めて重大な内容だと感じないかい。奥行きはそれが深まれば深まるほど過去となっているということ――つまり、このことは人間が前に見ている空間の中には過去から現在に至るまでの一切の時間の流れがぎつしり詰まっているということを言ってるのと同じだよね。
藤本 なるほど。科学者たちの言ってることを真に受ければ確かにそういうことになりますね。
半田 つまり、時空という概念を通して「前」を見た場合、奥行きは単なる空間としての3次元の一部ではなくて4次元になっているということなんだよね。
藤本 時間は4次元ですもんね。
半田 うん。このことは裏を返せば過去は空間的にはどんどん遠ざかっていっているものとして翻訳が可能だということなんだ。僕らの知覚との関係でいえば、たとえば今、目の前に灰皿があるとして、一秒前の灰皿という存在は現在の時点では30万km彼方の奥行きの中に遠ざかっているということになる。昨日の灰皿は同じく一光日(光が1日かかって進む距離)彼方の奥行きの中だ。
藤本 ………つまり、それが記憶だということですね。記憶は奥行きの中に畳み込まれていると。。
半田 そうだね。ベルクソンの考え方とアインシュタインの考え方を繋ぎ合わせるとどうしてもそういう推論が出てきてしまう。モノというのは記憶をも含んでモノとして存在していて、ベルクソンに言わせればその記憶というのは一般にいうような断片的な記憶のことではなく、常に在り続けているという持続感覚のことなんだ。その持続感覚は言い換えれば僕らが感じている時間の流れそのもののことだから、それは前の中に、つまり、奥行きの中にあると考えても論理的には矛盾はないよね。
藤本 なるほど。。だから、前が主体だというわけだ。。
半田 うん。まだまだ不明瞭なところはあるけれど、ヌーソロジーはそういう考え方をしていると思ってくれればいいよ。
藤本 ん〜、前が主体で、後が客体かあ。。ぐるっと体を回したときに、前だけで作られている球空間と後だけで作られている球空間の二つがあるってことなんですね。そして、僕らが普通、外の世界と呼んでいるのが後が集まってできている球空間で、こころの世界と呼んでいるのが前でできている球空間になっていると。。
半田 ああ、大まかにいいうとそれらが順に次元観察子のψ6とψ5と呼んでいるものになるね。
藤本 でも、なぜなんでしょ。そういう仕組みがこの空間にセットされているとしても、なぜ僕らは前を客体世界と感じ、むしろ後側を主体世界と感じているんでしょうかね。それってやっぱりさっき言われた言葉の力のせいでしょうか。言葉が後の空間にバラまかれることによって、その言葉の集まり自体を主体と感じているからなんでしょうか?
半田 そうだね。前が後側に鏡像を作っているんだよ。その意味で言えば、僕らが普段、外の世界と呼んでいるものは鏡の中の世界なのさ。さっきも言ったように想像的なものだよ。
藤本 それも『トランスフォーマー型ゲシュタルトプログラム』に書いてありましたよね。
半田 うん。この際だからしつこく説明しとくね。「わたし」にとっての後の世界というのはさっきも言ったように他者の前に当たる世界だよね。こうして僕と藤本さんが向かい合っているとして、藤本さんには僕の後の世界が見えているはずだ。いや、それだけじゃく、僕の前に見えている様々なモノの背後もおそらく見えているよね。それが僕にとっての「人間の内面」ということになるのだけど、それは何度も言うように僕には実際には見えていないわけだから、藤本さんが前に知覚しているものを僕が認識するためには僕は藤本さんが発する言葉でしか構成するしか方法がない。そして、そのとき同時に藤本さんが前に見ている世界の映像もイマジネーションによってコピーすることになる。つまり、藤本さんの視野空間に僕を含む僕の背後世界がどのように見えているかってね。これは僕にとっては僕の鏡像に等しい。
藤本 ええ。朝起きたとき洗面所に立って鏡を見ると自分の顔だけではなく背後世界も映し出されている。という話ですよね。それは他者の視野空間に映っている自分の像とほとんど同じものだと。
半田 うん。鏡映反転を起こしているわけだ。だから、言葉を他者から聞き取りながら習得して他者が見ている世界を言葉としてコピーし、そのイメージで世界を構成していくというのは、鏡像空間を作っていくことと同じ意味を持っているということになるんだ。
藤本 つまり、僕らが外在世界と呼んでいるものは言葉によって概念として構造化されていて、かつそれは鏡像空間の中に投げ込まれた鏡像的なイメージの集積にすぎないということですね。
半田 おそらくそうだね。だから、本当の主体である前は反転させられてしまって、その鏡像空間の中で自分の顔を主体として感じてしまうことになる。
藤本 半田さんが仮面(ペルソナ)と呼んでいるものですね。
半田 前の面が後の面に反転させられている。そしてそのときの後の面が集約させられたものが顔としての「面」だと考えるといいよ。
藤本 面白いですね。日本語でも英語でも面=顔、face=faceです。こりゃあ偶然の一致じゃないな。ほんとうの主体である前が後になってひっくり返っちゃうんですね。それと同時に前であったものに後が重なり、ほんとうの前は意識から消え去って、客体と呼ばれる世界になってしまう。。主体と客体の反転だ。
半田 ああ、前が無意識の中に沈んじゃうんだよ。フランスの哲学者や文学者たちは神秘思想の影響もあって人間という存在自体を性的な倒錯者だとよく言うんだけど、このひっくり返りもその倒錯の意味と考えていいかもしれないね。ヌーソロジーが4次元の反転と呼んでいるやつさ。おそらく持続としての時間もそのときに普通の時間に化けている。
藤本 普通の時間に化けているってのは?
半田 ベルクソンの言葉でいう「空間化された時間」というやつだね。イマージュとしてモノの背景空間の中に浸透していたはずの時間が鏡像的にヒックリ返されることによって単なる時計的な時間に置き換わってしまうとでもいうのかな。直線上に目盛りを打ったように解釈されてしまう時間のことだよ。
藤本 ?記憶における時間と通常の時計の時間は違うものだということですか?
半田 うん、全く質が違うものだと思うよ。
藤本 どういうふうに違うんでしょ?
半田 その違いを深く理解するにはベルクソンの本(『意識に直接与えられたものについての試論』や『物質と記憶』)を読んでもらうのが一番いいんだけど、ごくごく簡単に言うと、時計の時間は過去、現在、未来がすべて一様で均質的なものでしかないということなんだ。直線を引いて、中央にゼロ時刻を取り、左側に過去、右側に未来をそれぞれ方向づけ、直線上を現在という点時刻が流れて行くってイメージだよね。
藤本 物理学が使う時間軸みたいな考え方のことですね。
半田 うん。でもこれだと時間は単に空間の位置座標のようなものでしかなくなって、実際に僕らが感じ取っている時間とは程遠いものになってしまう。たとえば、現在というのは今、この瞬間のことを言うわけだけど、僕らの実際の生にとっては現在というのは必ず過去や未来を含んでいるよね。現在は過去の集積によって初めて現在となり得ているのだし、また、未来への希望や不安も抱えて初めて現在足り得ている。現在というのはこのように過去と未来の間に挟まれながら、それらを絶えず含んであるものだ。しかし、直線的な時間においては現在というのは、その直線上の単なる点時刻のことでしかない。点時刻の中には当然、その瞬間、刹那しか存在しておらず、過去や未来と有機的なつながりは何一つ持っていない。つまり、点が集まって線を作るという思考と同じで、瞬間瞬間の集まりのようなものとして時間の流れを想定しているわけだ。
藤本 そうですね。今、今、今という今の連続的な連鎖で時間が成り立っていると確かに思っています。
半田 しかし、そんな瞬間、瞬間なんてものは存在していないと考えた方がいいんじゃないかな。大森荘蔵という哲学者がうまい喩えをしていて僕も思わず笑ったんだけど、ハムの切り口をいくら集めたところでハムにはならないってことだね。それと同じで点時刻をいくら集めたところで時間の流れになることはない。それはせいぜい真の時間である持続に対する一つの参照の仕方にすぎず、単に整然と数字のラベルを貼付けて序列化しているだけってこと。ベルクソンが時計の時間のことを空間化された時間と呼ぶのはだいたいそんな内容かな。
藤本 でも、半田さんはさっき、奥行きの中に時間があると言われましたよね。そのときの時間も奥行きが深まれば深まるほど過去で、浅ければ浅いほど現在に近づくってことにはなりませんかね。なんだか空間化した時間のイメージに近い感じがしますけど。
半田 そうだね。奥行きに距離があるのならそうなるよね。でも奥行きに距離なんてないとしたらどうなる?
藤本 ………? 一応、奥行きというからには長さがあるような気がしますが。
半田 それは奥行きではなくて「幅」だと思うよ。奥行きを真横から見たことを想定して幅としてイメージしてしまっているんじゃないかい。僕が奥行きと言っているのは身体における絶対的前方向のことだよ。自分がそれを真横から見ることができるのであれば奥行きは幅に変換されて長さを持つかもしれないけど、こと身体空間においては奥行きはあくまでも奥行きであってそこには長さは存在していないよね。つまり、実際の知覚では奥行きというものは1点で同一視されて潰されてしまっている。だから、その厚みは無限に小さいものだと言わなくちゃならない。
藤本 観察の位置を横に出しちゃいけないということですね。
半田 うん、現段階ではダメだ。それだと身体空間における左右が介入してきてることになる。
藤本 確かに前だけ見る限りではそこにある奥行きの方向は点に潰されていますね。ということは、記憶はその凝縮化された点の中にグチャグチャになって蓄えられているってことですか?
半田 おそらくね。そういう考え方もできるってことだよ。射影として潰されている奥行きの中に圧力のようなものが加わっているかどうかは分からないけど、とにかく点に潰されてしまっている奥行きの中にある時間は数直線上で示される時間のように整然と秩序立てられて並んではいないと思うな。それこそ実際の記憶そのもののが僕らの意識に示す在り方と同じように、それは重なり合ってランダムに蓄えられている感じがする。過去に遡れば遡るほど記憶が薄まるってこともないし、時計的な時間の順序で記憶が整然と並らんでいるってこともないだろ。
藤本 ええ。半年前と一年前の区別は記憶だけじゃ判別できないですね。カレンダーをあてがわないと。。
半田 うん。つまり、僕らの時間の観念というのは、それこそ外面の時間(記憶)と内面の時間(時計、カレンダーでの時間)という形で混淆的に作り出されているんだよ。その二つがあって初めて時間は意識化されている。だけど、僕らはこれら二つの時間の在り方をうまく分離することができず意識の中でごっちゃになっているんだ。それを明確に区別していくことがヌーソロジーが言っている人間の内面と外面の見極め作業のことだと言い換えてもいいかな。
藤本 男の時間と女の時間ですね。時計の時間が男のリビドーによる時間、記憶の時間が女のリビドーにおける時間。二つが合わさって初めて時間が存在している。。
半田 そういうことだね。時間もまた悟性と感性の共同作業によって生まれているものなんだよね。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: イマージュ, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ベルクソン, 人類が神を見る日, 内面と外面, 大森荘蔵, 対談, 言葉