11月 22 2013
さて、昨日、紹介した「体-線変換(球空間をその半径部分の線分へと凝縮するようなイメージ)」の幾何学的な仕組みはとても単純で、詳しい解説は省きますが、正八面体と正六面体の内接-外接関係を繰り返していくカタチとして表現することができます。ヌーソロジーではこのカタチを「ヘキサチューブル(HEXATUBULE)」と呼んでいます。というのも、このカタチを正六面体の立体対角線方向から見ると、無限に続くヘキサグラムの回廊のように見えるからです(下図参照)。OCOT情報はこの回廊のことを「意識が通る道」と表現していました。このカタチは真実の次元上昇路というものが4次元性と3次元性を相互に連接させながら発展していくということを意味しています。Sさんがよくおっしゃている「2×2=3+1」の幾何学的表現と考えていいと思います。現在の人間の空間認識はヘキサチューブルにおける最も下部に息づく正八面体と正六面体の関係しか知りません。それが時間と空間に当たります。その意味で言えば、このヘキサチューブルは時空を超え出て行く次元上昇のための階段のようなものと言えると思います。キリスト教的に言えば天使が昇降するヤコブの梯子ってとこかな。
僕自身は、2008年ぐらいからこのヘキサチューブルに沿って現実の空間を見るように努めていたのですが、そのうち、ヘキサチューブルに内包された「線-体変換」の概念が意図するところがハッキリと分かり出してきました。それは一言でいえば、「あらゆる出来事を不動の視線の中に見る」ということです。これは「絶対不動の身体空間」を獲得することと同じ意味になります。視野空間上で展開されている日々の情景を一つのスクリーンに映し出された映画のように見るということですね。このとき、「わたし」は不動のスクリーンそのものとして感じてきますが、こうした認識によって純粋に視覚的な空間の抽出がなされ、既存の身体感覚から物質体の部分が除去されていくような感覚が生まれ、「わたし」とは本来、空間に遍在している存在であるという感覚が強くなってきます。純粋なエーテル空間の知覚のようなものでしょうか。「いつでも今、どこでもここ」としての光の身体の顕現と表現していいかもしれません。
動いているのは世界の方であって、けっしてわたしではないとする感覚——こうした感覚は誰でも一度は経験したことがあると思うのですが、でも、普通はすぐに普段の3次元的な身体感覚の中へと引き戻されてしまいます。しかし、ヘキサチューブルという思考装置が思考の中に組み込まれていると、この絶対不動の感覚をがっちりと意識にフィックスすることができるようになってきます。要は光の身体を支えるための構造的な思考がその感覚を強力にサポートするわけですね。
ただ、ヌーソロジーの場合はこうしたライトボディを獲得することだが目的というわけではありません。大事なことは、「そこで認識されているヘキサチューブルの構造が物質の創造の基盤」になっているということです。そうした連結がなければヘキサチューブルは単なる観念にすぎなくなり、イデアとはほど遠い存在になってしまいます。思考と対象との一致がイデアの絶対条件ですから、ヘキサチューブルのカタチの思考そのものが現実に存在するとされている素粒子になっていなくてはならないのです。——つづく。
続きを書いたら、何か話が細かくなってしまった。すまんこっです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヘキサチューブル, 佐藤博紀
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ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
11月 22 2013
Sさんとのツイッター問答 その2
さて、昨日、紹介した「体-線変換(球空間をその半径部分の線分へと凝縮するようなイメージ)」の幾何学的な仕組みはとても単純で、詳しい解説は省きますが、正八面体と正六面体の内接-外接関係を繰り返していくカタチとして表現することができます。ヌーソロジーではこのカタチを「ヘキサチューブル(HEXATUBULE)」と呼んでいます。というのも、このカタチを正六面体の立体対角線方向から見ると、無限に続くヘキサグラムの回廊のように見えるからです(下図参照)。OCOT情報はこの回廊のことを「意識が通る道」と表現していました。このカタチは真実の次元上昇路というものが4次元性と3次元性を相互に連接させながら発展していくということを意味しています。Sさんがよくおっしゃている「2×2=3+1」の幾何学的表現と考えていいと思います。現在の人間の空間認識はヘキサチューブルにおける最も下部に息づく正八面体と正六面体の関係しか知りません。それが時間と空間に当たります。その意味で言えば、このヘキサチューブルは時空を超え出て行く次元上昇のための階段のようなものと言えると思います。キリスト教的に言えば天使が昇降するヤコブの梯子ってとこかな。
僕自身は、2008年ぐらいからこのヘキサチューブルに沿って現実の空間を見るように努めていたのですが、そのうち、ヘキサチューブルに内包された「線-体変換」の概念が意図するところがハッキリと分かり出してきました。それは一言でいえば、「あらゆる出来事を不動の視線の中に見る」ということです。これは「絶対不動の身体空間」を獲得することと同じ意味になります。視野空間上で展開されている日々の情景を一つのスクリーンに映し出された映画のように見るということですね。このとき、「わたし」は不動のスクリーンそのものとして感じてきますが、こうした認識によって純粋に視覚的な空間の抽出がなされ、既存の身体感覚から物質体の部分が除去されていくような感覚が生まれ、「わたし」とは本来、空間に遍在している存在であるという感覚が強くなってきます。純粋なエーテル空間の知覚のようなものでしょうか。「いつでも今、どこでもここ」としての光の身体の顕現と表現していいかもしれません。
動いているのは世界の方であって、けっしてわたしではないとする感覚——こうした感覚は誰でも一度は経験したことがあると思うのですが、でも、普通はすぐに普段の3次元的な身体感覚の中へと引き戻されてしまいます。しかし、ヘキサチューブルという思考装置が思考の中に組み込まれていると、この絶対不動の感覚をがっちりと意識にフィックスすることができるようになってきます。要は光の身体を支えるための構造的な思考がその感覚を強力にサポートするわけですね。
ただ、ヌーソロジーの場合はこうしたライトボディを獲得することだが目的というわけではありません。大事なことは、「そこで認識されているヘキサチューブルの構造が物質の創造の基盤」になっているということです。そうした連結がなければヘキサチューブルは単なる観念にすぎなくなり、イデアとはほど遠い存在になってしまいます。思考と対象との一致がイデアの絶対条件ですから、ヘキサチューブルのカタチの思考そのものが現実に存在するとされている素粒子になっていなくてはならないのです。——つづく。
続きを書いたら、何か話が細かくなってしまった。すまんこっです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヘキサチューブル, 佐藤博紀