1月 10 2006
死の哲学
久々にいい本を読んだ。哲学の本なので晦渋な表現が多いが、狼のパワーとダンディズムがある。江川隆男著「死の哲学」(河出書房新社)。帯にはスピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリらが渦巻く大地からうまれた衝撃の〈実践哲学〉とある。一口で言えば、死を実践すること——これがこの本のテーマである。いかにもわたし好みの本なのだが、本当にいいことがたくさん書いてあるので、ヌース理論の裏本として硬派の読者におすすめしたい。
江川氏自身はドゥルーズの研究者らしいが、たぶんドゥルーズよりも、ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」で盛んに引用していたA・アルトーにかなり傾倒しているのではあるまいか。友人である河村悟もそうだったが、アルトー好きの人には近寄り難い不気味な迫力が漂っている。この人の文体にも同じような圧を感じる。死を生きること。死しても尚、器官なき身体として生きること。彼らの口からは、霊魂などといった甘っちょろい夢想的な語句は決して出て来ない。死は一つの身体を持っている。それは少なくとも宗教者が口にするようなふわふわとした正体不明の何物かなどではない。それは今在るこの生の身体の今在る分身でもある。その分身を死を生きることによって我がものとしていくこと。死後の世界は同時にここにあり、それを自らの欲望によって、生きながらにしてここに顕現させること。それが死の実践哲学の内実である。
しかし、「死を生きる」とは具体的にどういうことなのか?それは仏教の修行僧のように煩悩を絶って心を空にして生きることでもないだろう。また、ユダヤ教徒のある一派のように徹底したストイシズムを貫いて生きることでもないはずだ。死後の魂のためにこの世で善行を積むなどというのは言語道断、それは信仰心を持って世界に臨むことなどでは決してないのだ。
——潜在的なものの変形。非物体的なものの変形。別の身体との接続。否定なき無能力。。。作者は「生きる死」をこうした様々なタームで綴っていく。それがドゥルーズ風のイデアを語っているのは明らかなのだが、他のドゥルーズ解説者の言葉よりも艶かしく、より強度を持って心に響く。力強さと流麗さを持った秀逸な文体である。とても才能がある人だ。
ただ言えることは、スピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリ(これにニーチェが加われば鬼に金棒だが)、彼らの哲学を日常の生活の中で実践しようとすると、必ず体制と衝突するということは覚悟しなければならない。ここでいう体制とは別にイデオロギーが作る体制などではない。生活の体制、つまり、人間世界全般の常識そのものと激突してしまうハメになるのは必死である。まぁ、死の哲学を標榜するからには、それは当たり前のことでもあるだろうが。たとえば、
「犬や猫を愛する者たちは、すべて馬鹿者である」。こうした者たちは、間違いなく人間を単なる道徳の動物にするだけでは飽き足らず、動物を人間化して道徳存在を増大させようとしているのだ(p.93)。
なんてことが当たり前のように書いてある。嫌われる。確実に忌み嫌われる(笑)。うちのかみさんは猫=命なので、思わず笑いがこぼれてしまったが、彼らの生き方を突き通すには、かみさんのみならず、ほぼ人類の全体を的に回す覚悟がなければ無理だ。死の哲学へと参入するには、まずもって、そういった孤高の精神を持って、人間世界の中で暴れ回る覚悟が必要なのである。
ちなみに作者が傾倒するアルトーもシリウスやマヤ文明に魅せられていた。シリウス派にはいろいろいる。ニューエイジ、ポストモダン、伝統的オカルティスト、UFO信者、さらにはアシッド狂いのジャンキー。人間はこれだから愉しい。幅広くシリウスを語りたいものだ。
3月 15 2008
太陽と月に背いて(5)
駄弁を続けます。
●有機的なものから無機的なものへの侵入
物質的なものを巡る科学的思考と霊的なものを巡る宗教的思考。シリウスとはこれら両者を一つのものの表と裏として見なすことのできる知性が存在している領域です。理性的な思考と感性的な思考の断裂の狭間にそれらをつなぐ純粋思考を持った天使世界が存在しています。この天使たちが思考対象としているものがヌース理論でいうところの「観察子」という概念だと考えていいと思います。ここはダイナミックに生死を繰り返す有機体の世界を卒業して、創造に着手する無機物の場所でもありますから、ある意味鉱物的な世界、つまり、幾何学的な世界となります。パワーストーンに秘められたあの不思議な力は、シリウスに居住するこうした知的精神体によってもたらされているもののようです。
コ : 古代人が共通して巨石文明を持っていたのはなぜですか?
オ : 石には何か別の次元が関与できたのではないかと思います。石には人間の意識を(進化の)方向に関与させる調整質が含まれています。それ(その調整)を行うためにやった(巨石を使った)のです。石とは力の方向性(精神のカタチが存在する場所への方向性)の対化。
この鉱物的な知性が観察子と深く関係しています。ヌース理論でいう観察子とは無意識構造を象(かたど)っている空間のカタチのことを意味しますが、このカタチは人間の意識に捉えられている物質的な表象や心的な表象とは一切無縁のものです。つまり、この純粋思考においては、理性が作り出した容器図式にもとづく論理も、その反動として動いている情動的な生産物も、一切立ち入ることはできません(スピノザという哲学者が言った「第三種の認識」に似ています)。なぜなら、この純粋思考というのは、理性や感情を人間の意識に提供している無意識の機構そのものだからです。分りやすく言えば、人間が持った様々な意識の様態が種々のアプリケーションだとすれば、それらを動かしているOSと言えばいいのでしょうか。いや、この純粋思考への移行は、もっと言えば、人間の意識自体を動かしているOS自体を全く違うOSに入れ替える作業と言っていいのかもしれません。多くの人にヌース理論が難しいと感じられる所以は、この異質性にあります。
確かに日常的な思考からヌース的思考への切り替えは厄介な作業なのですが、僕の拙い経験から言って、このOSの切り替えには一つのコツがあります。それは一言で言えば「時計的な時間を無視しちゃえば?」ということです。とにかく時計的な時間などは存在してない、と言う立ち位置から自分を取り巻く世界について思考の再構成を試みることです。ヌースの世界観から見ると、時計的な時間は深淵です。ここは無底、つまり底がありません。思考が時間にトラップされてしまうと、思考は空間に直線という迷路を生み出し、思考を悪無限の中に放り込むことになるわけです。この宇宙はいつ始まったのか、この宇宙はいつ終わるのか、宇宙に果てはあるのか、人間は死んだらどうなるなのかetc。。こうした疑問は、問い立ての仕方自体が時間の罠に引っかかっているために、どのようなロジックを持ってこようとも決して答えが出てくることはありません。だから、ここは「時間など存在しない」という思い切った跳躍が必要なのです。時間が導入された世界には3次元空間という深い闇がパックリと口を開けて、人間の意識をカオスの中に呑み込んでいます。もちろん、このカオスは「悪」ではありません。むしろこのカオスがなければ宇宙は生命(生物)を生み出すことはなかったと言えます。生命とは光と闇の混合の上でしか成立しないからです。
●時空=自我=炭素
いずれヌース理論の中でもはっきりと示すことができると思いますが、人間が作り出しているこの4次元時空という概念こそが生命生成の本質力となるものです。そして、生命生成におけるカオスの基盤に横たわっているのが想像的自我という人間の意識のセンターとなっているものなのです。この想像的自我を象っている空間構造は、素粒子次元ではニュートリノ、元素次元では炭素、などと深い関係を持って存在させられています。
つまり、ヌース理論でいう覚醒意識(顕在化)から見ると、炭素という元素、3次元空間認識を作り出す時間概念、そして想像的自我のカタチはすべて同じもののように見えるということです(ちなみにこのカタチは「止核精神」と呼ばれ、幾何形状としては正四面体です)。2冊目の著書『シリウス革命』で、植物とは人間の思考が物質化したもの、動物とは人間の感情が物質化したものと書きましたが、物質的に見て、生命体の根本に炭素という元素が重要な役割を果たしているのも、炭素が自我が持った空間構造の物質的射影だからと考えて下さい。
おいおい、半田、飛ばすのは止めろ。時間がないと言ったって現にあるじゃないか。
そんな声が聞こえてきそうですが(^^)、時間感覚をマヒさせていくためには、ただ時間などない、と決めてかかるだけでは無理です。時間とは無意識の構造が提供している一種の霊力ですから、時間感覚を希薄にするためには時間がどこで生成されてくるのか、まずはその場所を見つけ出し、その生成機構をありありと目撃する必要があります。この時間の生産機構を見ている場所は時間がない世界となります。つまり、次のようなことです。
時間がない世界において世界がどのようになっているのか、その具体的なランドスケープを感覚化するための知覚能力とそれらを一つの世界イメージとして結ぶ概念力を意識に作り出せばいいのです。いくら時間がないないと心で思ってみても、どうしても時間があるように感じてしまうのは、僕ら人間の意識が時間概念のない世界における具体的な大地や都市や交通網や、そこで行なわれている経済活動をイメージできていないからにすぎません。そこには一体どういう人々が居住しており、そこでは一体何が交換され、そこで一体どのような会話が交わされているのか、こうした非日常的日常というか、日常的非日常の様子がありありとした情景として見えてくれば、もはや時間という神霊は僕らのもとから立ち去っていきます。いや、正確に言えば、時間がある世界と時間がない世界を自由に行き来できる意識形態が作り出されてくるということです。こうした意識形態を持ったニュータイプたちがヌース理論でいうところの「トランスフォーマー(変換人)」という存在です。これは言い換えれば、意識進化へと一歩踏み出した次元両性類としての人間と言えます。この新しいタイプの人間は、下半身は今まで通り水(3次元空間)の中を彷徨う魚の姿をしていますが、上半身は光に満ちた大気の空間に出て肺呼吸ができる生き物たちです。古代バビロニアの伝説にあるあのオアンネスも、ドゴン伝説に登場してくるシリウスから飛来した両生類的生き物と言われているあのノンモも、ヌース理論から見れば、こうした3次元世界と4次元以上の高次元空間を行き来できるトランスフォーマーの異名にすぎません。そして、連中はかつてこの地球上に存在していたのです。。。いや、ずっと、存在し続けている。。。
次回は時間概念を脆弱化させていくためのいくつかの空間概念について話してみようと思います。——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: シリウス革命, スピノザ, ニュートリノ, 素粒子