神秘主義を超えて

時間は流れているのではなく、永遠と瞬間の間を反復している。反復なのだから、この永遠と瞬間の場所を見つけないと時間を観ることはできない。永遠は見る側に、瞬間は見られる側に生じている。ヌーソロジーでいう人間の外面と人間の内面という概念も、そのそれぞれの場所のことを意味している。

私たちが時間を流れとして感じるのも、見られる側にしか意識が向いていないからだ。見る側が無意識化しているということ。見られるところに外が生まれ、見るところに内が生まれている。客観と主観。永遠としての純粋な主観空間を想起しよう。それによって、自分自身が時間だという感覚が生まれてくる。

ただ、こんなことをいくらつぶやいても神秘主義めいた哲学の響きしか持たないのもまた事実。だからこそ、科学的な論理に裏付けされた宇宙的な事実として、この「私とは時間だった」件が多くの人の間で取り沙汰されないといけない。

人間とは時間である。そして、時間とは空間のことでもある。人間と時間と空間・・・。この三つの「間」が私たちの思考と感覚の中で一致を見たときに、私たちは初めて存在の名のもとに生きることができるようになる。