2月 3 2025
このヘキサチューブルを通して空間を見れるようになると、空間に対する感受性が劇的に変化してくる。
例えば、君が今、目の前にリンゴを見ているとしよう。そのとき君は、目の前の空間、約1メートルぐらい離れたところにリンゴがある——というようにしか空間を見ていない。こういう認識は空間を尺度化しているので、意識は点球次元にある。空間を物として対象化しているということだ。
しかし、よく考えれば、このリンゴは私が見ているのであって、このとき、私とリンゴは二而不二の関係にあり、見るものと見られるものはそう易々と分離できるものではない。そのようにリンゴが意識に捉えられたときは、意識は垂子次元に入っている。尺度(点球次元)が作る時空という同一性の世界から意識が出るということだ。
垂子次元では自分のイマジネーションによってリンゴが形作られているのが見えてくる。垂子としての空間が君の意識にリンゴの認識を与えているのである。 そして、垂質次元では、そのリンゴがリンゴとしてどのような意味を持つのか、他のさまざまな垂子との間で情報をやり取りしながら、意味のネットワークを活動させている。このリンゴは青森産か?とか、禁断の果実はなぜリンゴなんだ?とかetc………。
リンゴの周りにたくさんの人が集まってくれば、また空間の次元が変わる。元々「これがリンゴである」という共通の認識は、この球精神の働きによって生まれている。
まぁ、ざっと荒っぽく説明するなら、こんな感じだ。 私たちの意識は、こうした空間の多重性の中で働いている。そして、その世界はすべて目の前の空間の中にあるということだ。
ヌーソロジーの視点から言わせてもらうなら、今の私たちの意識は「垂子」の次元さえ見えていないということになる。「時空と物質」という人間型ゲシュタルトが、奥行きの空間に根付く、人間の霊的本性を見えなくさせているのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヘキサチューブル, 人間型ゲシュタルト
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ヌーソロジーサロン
ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
2月 3 2025
空間は物を収めた容器のようなものではない
このヘキサチューブルを通して空間を見れるようになると、空間に対する感受性が劇的に変化してくる。
例えば、君が今、目の前にリンゴを見ているとしよう。そのとき君は、目の前の空間、約1メートルぐらい離れたところにリンゴがある——というようにしか空間を見ていない。こういう認識は空間を尺度化しているので、意識は点球次元にある。空間を物として対象化しているということだ。
しかし、よく考えれば、このリンゴは私が見ているのであって、このとき、私とリンゴは二而不二の関係にあり、見るものと見られるものはそう易々と分離できるものではない。そのようにリンゴが意識に捉えられたときは、意識は垂子次元に入っている。尺度(点球次元)が作る時空という同一性の世界から意識が出るということだ。
垂子次元では自分のイマジネーションによってリンゴが形作られているのが見えてくる。垂子としての空間が君の意識にリンゴの認識を与えているのである。
そして、垂質次元では、そのリンゴがリンゴとしてどのような意味を持つのか、他のさまざまな垂子との間で情報をやり取りしながら、意味のネットワークを活動させている。このリンゴは青森産か?とか、禁断の果実はなぜリンゴなんだ?とかetc………。
リンゴの周りにたくさんの人が集まってくれば、また空間の次元が変わる。元々「これがリンゴである」という共通の認識は、この球精神の働きによって生まれている。
まぁ、ざっと荒っぽく説明するなら、こんな感じだ。
私たちの意識は、こうした空間の多重性の中で働いている。そして、その世界はすべて目の前の空間の中にあるということだ。
ヌーソロジーの視点から言わせてもらうなら、今の私たちの意識は「垂子」の次元さえ見えていないということになる。「時空と物質」という人間型ゲシュタルトが、奥行きの空間に根付く、人間の霊的本性を見えなくさせているのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ヘキサチューブル, 人間型ゲシュタルト