このままAdSで行くか、それともCFTに乗り換えるか

ヌーソロジーでいう「人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの移行」というのは、「AdS空間からCFT空間への移行」と言い換えられそうだ。難解な表現だが、この方が一般への通りがいいかもしれない。存在者の空間から、存在の空間への移行という意味なんだけどね。

⚫︎AdS空間に基づく物理学的宇宙観
現代物理学の多くは「観測者が存在しなくても宇宙は外部に実在し続ける」という客観宇宙観を前提としている。これは、AdS空間に対応する認識構造であり、対象(宇宙や物体)を外部に固定化し、それを独立した存在として把握する枠組みになっている。

⚫︎CFT空間への認識の切り替え
一方、CFT空間の観点では、対象(宇宙や物体)と観測者(意識)は切り離されたものではなく、同一の認識構造の中に統合されている。ここでの主体と客体は「認識の中の役割」として区別されるだけであり、互いに独立した存在ではない。
CFT空間が僕らの意識に浮上してくれば、AdS空間が作り出している言説の多くが、真実とは大きくかけ離れているものであることが分かってくるだろう。

⚫︎その最たるものが、対象の存在確率などといった考え方。信じちゃダメ。
量子力学では、対象(例: 粒子)の位置や状態は「確率的」に記述される。波動関数が位置や運動量などの確率密度を与え、測定によってその確率が「収束する」と解釈される。
この解釈の前提は、観測者が対象の存在そのものを「確率として」捉えるというところにある。AdS空間、つまり対象を外在化する空間での視点では、こうした考え方しかできない。
しかし、CFT空間側からこの現象を見直すと、まったく別の視点が浮かび上がる。

CFT空間側で波動関数を捉えると、そこに示されている確率は、実は「対象の存在確率」などといったものではない。むしろ、観測者がどの位相(視点や認識の角度)から対象を捉えているかという、観測行為のバリエーションを示しているに過ぎない。
ここでいう「位相」とは、観測者が対象をどの方向から、どのような意識の焦点で見ているか、という認識上の立ち位置のことを指す。この立ち位置の違いが波動関数の確率的な表現となって現れているのだ。

つまり、波動関数は観測者の認識の入射角を反映しているだけであり、対象の存在そのものが不確定であるわけではない。
言い換えれば、AdS空間が生み出す「存在確率」という概念は、CFT空間の視点から見ると、観測者の認識プロセスの多様性を確率的に見せているだけの虚像に過ぎないということだ。

CFT空間においては、対象は「主客一致」として認識される。つまり、観測者がどの視点から対象を見ているかにかかわらず、対象はそこに観測者の持続として厳然として存在する。このような理解によって、「存在確率」という虚構は崩れ去り、対象は虚像ではなく、力強い実体として理解されるようになるわけだ。もちろん、観測者自身の精神として。

この波動関数の確率解釈に象徴されるように、AdS空間に閉じ込められた認識では、世界はどこか虚像的で心許ないものとして感じられる。しかし、CFT空間が浮上し、世界を主客一致として捉える認識が開かれると、世界は生き生きとした実在感を持つようになる。

AdSとCFT。どちらの空間で生きるか——この認識の違いは、僕たちのこれからの生き方や人生観にも大きな影響を与えてくることになるだろう。