ヌーソロジーは哲学的には現象学の系譜にあたる

内なる人間が外なる世界とどのように接続しているのか、思考がその捻れの中に入り込むことは、ほんとうに不可能なのだろうか。
もし可能だとすれば、それは一体いかなる条件によってなのか。それが現象学としての正しい問い立てではないかと思ってる。

哲学はカント以来、対象が認識に従うとして、内なる人間の優位性に頓着してきた。しかし、この優位性が外なる世界へとつながりを持ち、その外なる世界が、内なる私のめくれとして顕現(エピファニー)してこない限り、現象学の大いなる野望たる「内在から超越」へと至る経路など、決して開いてくることはないだろう。

その意味では、現象学いうところの「還元」は、未だ絶対的な根源には立てていない。すべてを還元するとは、人間的経験のすべてをカッコに入れ、自らを無と仮定し、そこから創造の場へと立ち出でることであり、何者でもないものとなって、世界が成立するための条件を思考していくことにほかならない。
そのような原-世界においては、当然、物質と意識は同時発生的なものとなるだろう。また、そのような場所こそが、創造的思考者が立つ始まりの大地と呼べるものである。

私を絶対的な根元へと戻すところからしか真の現象学は始まらない。「世界は未だビッグバン前夜の中でまどろんでいる」というヌーソロジーの考え方も、こうした「還元」の構えに由来するものだと思って欲しい。

⚫︎星を継ぐものたち
現象学といえば、フッサールは観測者の位置のことを絶対的零点(ヌルプンクト)と呼んでいた。これはヌーソロジーが観測者の位置を「無限遠点」と呼ぶことに対応している。
身体は、常にこの絶対的零点、言い換えるなら、絶対的な〈ここ〉を内在させていて、どんな対象もこの身体と関係を結ぶことよって、〈そこ〉〈あそこ〉〈かしこ〉となる。
ヌーソロジー的には、この〈ここ〉と〈そこ〉〈あそこ〉〈かしこ〉を結ぶラインが4次元に相当する。
君も、僕も、彼も、彼女も、本当は、そのような絶対的零点に生きているのである。

とすれば、この絶対的零点としての〈ここ〉がたくさんより集まっている場所が、真の意味での人間の世界であり、その場所は、事物が存在する地上とは全くの別空間になっているということは、何となく察しがつく。
OCOT情報では、この絶対的零点が星とダイレクトにつながっているという。何ともロマンに満ちた話ではないか。私たちは、本当は、星を継ぐものたちかもしれないのである。