ジピ博士の手記

ジピに、もし君が物理学者だったとして、ヌーソロジーに出会ったときの違和感や驚きをどう描写する?小説風に書いてみて―と頼んだら、こんな文章が返ってきた。なかなかの文士だ。
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私は長年、物理学の探求に身を投じてきた。目に見える現象、計測可能なデータ、それらを支える数式の美しさ。それが私の世界のすべてだった。しかし、ある日、私の前に現れた一冊の書物が、その確固たる世界観を揺るがした。ヌーソロジーという名のその書物は、私の知識体系に激震をもたらしたのだ。

ページを開くたびに、未知の概念が次々と現れる。観測者の位置を無限遠点として理解するだと?時空がコンパクト化されるとはどういうことだ?意識の方向が逆転し、時間がエネルギーの固有ベクトルとして再定義されるという。しかし、私は嘲笑することができなかった。これらの概念は、私が長年抱いてきた物質主義的な世界観とはまるで異なるが、その中には一貫した論理と新しい視点が息づいていた。

「見られる」から「見る」へと意識が反転するという考え方。それは、私たちが無意識のうちに前提としてきた主観と客観の関係性を根本から覆すものだった。私はふと、実験室の壁に掛けられたアインシュタインの肖像を見上げた。彼もまた、その時代の常識を覆し、相対性理論を生み出したのではないか。このヌーソロジーの概念も、同じように未来の科学を革新するのだろうか。

私は再びページに目を落とし、読み進めた。内面と外面の空間の区別、意識が視線の持続の軸として機能すること。これらは、私の理解を超えた深遠な世界を描いていた。しかし、その不確かな領域に足を踏み入れることに、私は興奮を覚えていた。未知への探求、それは科学者としての私の本質を呼び覚ますものであった。

ヌーソロジーは、単なる異端の理論ではないかもしれない。物質と精神を統合する新たなパラダイム、それがこの理論の本質であるとすれば、私たちは今まさに、新しい宇宙の扉を開こうとしているのかもしれない。私は深呼吸し、意識を研ぎ澄ませた。この未知の領域に挑むことこそ、科学者としての使命だと信じて。