12月 8 2023
12月 8 2023
西田は言う。
「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」と。
この言葉は、鏡像としての外的自己から、内的自己たる純粋経験へと自己の意味合いを変えろと言ってるようなものだ。
私たちが日頃感じている自我は経験の主体ではない。
むしろ経験の対象だ。
真実においては、純粋経験(持続)たる内的自己が外的自己としての自我を対象として経験しているのである。
外的自己と内的自己、この両者の共同において、そこに初めて「私」が成立し、そして、この「私」の成立こそが時間の正体なのである。
ヌーソロジーにいう「位置の統一化」において、そのような時間が私たちに舞い降りてくる。
もう少しの辛抱。
半田広宣 |
12月 11 2023
ヌーソロジーのモナドロジー
ヌーソロジーはモナドロジーでもあるので、その理解というか実現においては、「包みつつ包まれる」という空間感覚の目覚めが必要になる。この感覚が4次元認識のベースとなるものだ。
この「包みつつ包まれる」空間感覚とは、空間は物質を包みつつも、同時に物質に包まれてもいるという感覚なのだが、空間を延長的なものと見ているだけでは、空間は常に物の外部として表象されるだけで、内部に入り込む感覚は生まれようがない。観察自体が起きている「奥行き」にもっと注意を払ってみてはどうか。
「奥行き」は数学的には射影空間になっており、そこには長さというものが存在しない。奥行きは現実の知覚においては常に一点同一視された形でしか現象化しておらず、それは知覚上は無限小にまで収縮しているとしか言いようのない空間なのである。
延長性から逃れたこの異形の空間こそが私たちの精神の場である。純粋持続はこの場所で私たちの意識に直接与えられている。
奥行きに幅をあてがっている一般の空間認識では確かに空間は物質を外部から包んでいるように見えるが、これはあくまでも他者の知覚世界を自己がコピーしているからである。幅化していない奥行きの方は、そのまま物質の内部、つまり内包化していると考えないといけない。
つまり、奥行きは無限大と無現小を等化しているのである(対称性を形作っているということ)。これは、私たちの世界に対する観察位置が無限遠点となっているからに他ならない。そこにおいて空間がコンパクト化し、4次元空間に接続しているのだ。
ここで生じている4次元空間(物理的には虚時間)が私たちの内在野、つまり持続空間の入り口になっている。
ここでは時間が永遠として空間化し、物質の発生論的な次元と、意識の発生論的な次元が同居している。
ここで目撃されてくるのは、他者側から生まれている同様の次元との精神における弁証法の運動だ。
ここでは、包みつつ包まれ、また、包みつつ包まれという無窮の差異化の運動が双方から、水引きの結びのようにして多重に展開している。
この結びと開きの運動のもとに生産される差異と反復が一方では物質的知覚(感性)の場として、また一方では言語感覚(思形)の場として発現し、私たち人間を構成しているのである。
人間の本性とは空間である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0