4次元を認識するときの心得

4次元の世界を3次元の延長感覚で表現しようとするとどうしても複雑になる(下図:ホップファイブレーションが作る3次元球面の形)。

ヌーソロジー的には4次元は延長感覚、つまり対象としては捉えることができない世界なので、延長空間で理解しようとすると返って混乱し、理解不可能なものになると考える。つまり科学者たちの類推のような形で4次元を思考してはいけない、ということだ。4次元は4次元感覚の中で直観されるべきものであって、延長世界に還元して表現できるものじゃない。

4次元に出るためには、まずは3次元の無限遠点を発見することが必要だ。そこは自分自身の内的視点と3次元空間との接点が生まれている位置のことでもある。要は、私たちの内側からの視線(奥行き)自体が4次元なのである。その覚知によって初めて空間は対象ではなくなり、空間と主体は不可分のものとなる。

ヌーソロジーの文脈では、言うまでもなく、この主体と不可分となった空間が持続空間、つまり私たちが精神として息づいている空間である。自分を3次元から出す、つまり、3次元として見えている世界を視野空間の中に見るなら、それを見ている主体自身は3次元から出ることができているということだ。このとき3次元空間は3次元球面と化す。この3次元球面が見えたとき、私は絶対不動の私となる。不動明王のようなものである。

もし「他者に見られる」という経験をしなかったなら、私たちは、そのまま4次元の住人でいられたことだろう。「見られる」という意識の発現によって、4次元の持続空間は4次元の時空へと変質し、人間は3次元の中に生きる物質的存在になったのである。

その意味で言えば、この「見られる」という意識はイブが食したリンゴのようなものだと言っていい。見られるところに時空が生じ、そこでは4次元以上の世界で活動しているすべての精神は物質の多様性として現れてくる。知識の木にたわわに実った知識の果実がここぞとばかりに現れるのである。

私たちは、この「見られる」という経験を与えている他者の中に自分自身を発見しないといけない。というのも、「見られる」という経験も、自分が他者に成り代わって「見ている」ことに過ぎないからだ。「他者とは鏡」ということの本質もここにある。主体は他者という鏡を通して、鏡像化した自分を見ている。

そのような認識を自己と他者双方が持ったときの世界を想像してみるといい。そのとき初めて、私たちは「わたしはあなた」「あなたはわたし」というあのマヤ人たちのイン・ラケチという言葉の真意を理解することだろう。そのような世界では、世界に「わたし」という存在はいなくなり、「物」そのもの世界となる。結び(産霊)が生じるのである。

3次元球面