5月 1 2023
見ているものと見られているものの位置を二つに分けたがる。これが人間の意識の習性だ。そこに幅を置きたがる・・・何度も言ってるように、これは他者視線で世界を見ることが無意識の中で当たり前になっていることによって、起こっていることだ。もう、これを止めようと言ってるのがヌーソロジーだ。
考えてみれば世に出回っている知識のほとんどが、この視線で世界を見たところで成り立っている。この知識網は人間を人間にがんじがらめに縛り付けている。この窮屈さから出るためには、自分自身の視線に合わせて空間を再構成し、別の知識網を作り上げないといけない。そういう時期なのよ。ほんと。
自分自身の視線に合わせて空間を再構成するためには、視線が射影であることを知らないといけない。見ることが起きている現場は数学的には射影空間になっていて、それは時空ではない。ヌーソロジーが提唱している空間の「幅から奥行きへの質的転換」もそのことを意味している。
シュタイナー的に言えば、この射影空間がエーテル空間であり、エーテル体の活動場なのだ。時空から見れば、この射影空間はミクロに縮んでいる。巨大なマクロの広がりもそれを視線の中に埋めてしまうならミクロとなんら変わりない。
つまり、幅で見ると巨大に思えるこの時空全体も、実は人間の視線を通じてそのままミクロに射映され、そのまま縮んでる。この宇宙はそういう仕組みになっている。そして、物理学者たちはこの縮んだ宇宙が生み出しているシステムのことを素粒子と呼んでいる。
奥行き、視線、眼差し・・・。ここに息づいているのが、持続としての存在と考えていいように思う。エーテル空間なのだから、それは生命と言い換えてもいいのではないか。幅世界の中で時間と呼ばれていたものが、持続へと反転するところに真の生命の誕生がある。
時空に生きる人間の意識から見れば、このミクロへの射影は死への導線といっていいものだ。人間の意識は幅世界の時間と、奥行き世界の持続との間を右往左往することで意識たりえている。生と死を跨いだところに私たちの生きることの反復がある。まさに生死不二とはこのことだ。
この反復を解かれたときに、文字通り意識は死の界域へと入っていくのだろうが、そこはヌーソロジーの文脈からすれば、素粒子が内的に活動している世界になっている。そこは内側から現象世界を生み出してる存在世界の入り口だ。射影された万物の本性たちがその奥で存在の歌を唄っている。
これは神秘主義的幻想ではない。私たちは知性を通して必ずやその世界へと入っていくことができる。それが私たちが今ここにこうして存在していることの意味でもあるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, 素粒子
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ヌーソロジーサロン
ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
5月 1 2023
ただただ、射影の導きに従って—
見ているものと見られているものの位置を二つに分けたがる。これが人間の意識の習性だ。そこに幅を置きたがる・・・何度も言ってるように、これは他者視線で世界を見ることが無意識の中で当たり前になっていることによって、起こっていることだ。もう、これを止めようと言ってるのがヌーソロジーだ。
考えてみれば世に出回っている知識のほとんどが、この視線で世界を見たところで成り立っている。この知識網は人間を人間にがんじがらめに縛り付けている。この窮屈さから出るためには、自分自身の視線に合わせて空間を再構成し、別の知識網を作り上げないといけない。そういう時期なのよ。ほんと。
自分自身の視線に合わせて空間を再構成するためには、視線が射影であることを知らないといけない。見ることが起きている現場は数学的には射影空間になっていて、それは時空ではない。ヌーソロジーが提唱している空間の「幅から奥行きへの質的転換」もそのことを意味している。
シュタイナー的に言えば、この射影空間がエーテル空間であり、エーテル体の活動場なのだ。時空から見れば、この射影空間はミクロに縮んでいる。巨大なマクロの広がりもそれを視線の中に埋めてしまうならミクロとなんら変わりない。
つまり、幅で見ると巨大に思えるこの時空全体も、実は人間の視線を通じてそのままミクロに射映され、そのまま縮んでる。この宇宙はそういう仕組みになっている。そして、物理学者たちはこの縮んだ宇宙が生み出しているシステムのことを素粒子と呼んでいる。
奥行き、視線、眼差し・・・。ここに息づいているのが、持続としての存在と考えていいように思う。エーテル空間なのだから、それは生命と言い換えてもいいのではないか。幅世界の中で時間と呼ばれていたものが、持続へと反転するところに真の生命の誕生がある。
時空に生きる人間の意識から見れば、このミクロへの射影は死への導線といっていいものだ。人間の意識は幅世界の時間と、奥行き世界の持続との間を右往左往することで意識たりえている。生と死を跨いだところに私たちの生きることの反復がある。まさに生死不二とはこのことだ。
この反復を解かれたときに、文字通り意識は死の界域へと入っていくのだろうが、そこはヌーソロジーの文脈からすれば、素粒子が内的に活動している世界になっている。そこは内側から現象世界を生み出してる存在世界の入り口だ。射影された万物の本性たちがその奥で存在の歌を唄っている。
これは神秘主義的幻想ではない。私たちは知性を通して必ずやその世界へと入っていくことができる。それが私たちが今ここにこうして存在していることの意味でもあるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, 素粒子