8月 14 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その8
前回よりのつづき――
では存在そのものへと変身を遂げた存在者はいかにして無を有へと変換していくのか、また、そのときに存在へと変身を遂げた存在者には新たなる創造のためにどのような身振りを要求されるのか――ルーリアの説くツィムツームのビジョンをそこに重ね合わせてみることにしよう。
存在は創造に当たって自らを収縮させ、存在の内部から撤退した。その撤退跡には存在者の場が用意され、そこに収縮によって点と化した存在とその反映物としての全き空無が姿を表す。それがツィムツームの風景である。ここから存在世界自体が自らの在り方を刷新していくためには、このツィムツームによって生じる神の自己収縮と自己展開が継続して生起していくような深い弁証法が要求される。それはツィムツームの後に生ずる最初の対関係である〈点と空間〉の統合それ自身が新たなツィムツームとなって不断に差異の生産を生起させていくような弁証法である。このような弁証法は弁証法が持ったシステム自体を絶えず自らのうちに収斂させていくような運動と、同時にその反対物を自らの外部に向けて絶えず展開する運動を合わせ持つような二重の運動となる。反対物として外部へと展開される方はシステム自身に付加される負の運動であるから、システム全体においては常にn+(-n)=0が成り立ち、全体としてツィムツームを通して為される創造は無の自己展開といった様相を帯びなければならない。
こうした〈統合-展開〉の連続性は存在者としての単一性を存在としての単一性とへ収束させていく働きと同時に、存在としての単一性を存在者としての単一性へと展開していく働きを同時に合わせ持っていることが分かる。つまり、光の流出という創造者による原初の一撃は存在者からの上昇(多なるものを一なるものへと変換していく)であると同時に、存在からの下降(一なるものを多なるものへと分割していく)という二つの流れを同時に持ち合わせている必要があるということである。言い換えれば、創造のプロセスにおいては分割と統合における全体と部分の関係が、つねに全体=部分、さらには部分=全体というようにミクロとマクロの対称性が常に保たれながら展開されていく必要があるということだ。
このようにルーリアのツィムーツームを創造原理として受け入れ、その展開に一貫性を持たせるためには生命の樹のあるべき姿は自ずとあらわになってくる——つまりは、既存の生命の樹に加えて、そこに上下、左右が共に反転したセフィロトの樹を重ね合わせ、生命の樹自体を両性具有化させ、内部にキアスムを含み持つ立体的な樹木へと変身させなければならないということだ。それによって初めて生命の樹と知識の樹は創造の樹木として統合され、僕らはツィムツームの原理に満たされた創造空間が持つ真の対称性に触れることができるのだ。
世界は無数の存在者で満ちている。そして、それらは時空という存在者全体を統括する「一なるもの」の存在によって現前している。創造の終わり=始まりにおいては、この「一なるもの」にツィムツームの雷鳴が轟く。ここにおいて時空は一気に点へと収縮するのだが、それは同時に新しい存在者を生み出すための光の種子となる。時空としての一者が点的一者へと変身を遂げ、観念の原初へと立ち戻るのだ。こうした立ち戻りがヌーソロジーが「反転」と呼ぶ所作であり、そこに出現するものが全きヌース(旋回的知性)で駆動する創造のメルカバーである。
——おわり
8月 16 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その9
思わず「おわり」と書いてしまったが、大事な事を書き忘れていた。
それは生命の樹と上下・左右が反転した生命の樹、これら二つの樹木の本質的な意味についてだ。こうした考え方を生命の樹の見方に導入すれば、当然のことながら、各セフィラーはすべて二つづつ存在していることになる。ケテルとマルクトに関して言うならば、ケテルがマルクトになり、マルクトがケテルとなっている裏のセフィロトの構成が存在してこそ初めて生命の樹は生命の樹足り得ているということである。お互いがお互いの倒立像を映し合う双対のセフィロト像——これらはおそらく自己側から見た生命の樹と他者側から見た生命の樹の関係である。つまり、自己と他者の間では生命の樹は互いに反転していると見なす必要があるということだ。
例えばこう考えてみよう。〈わたし〉にとって物質世界と呼ばれているところは確かにマルクトに対応させることが可能だろう。しかし、〈あなた〉にとって果たしてそこはマルクトと呼べる場所となっているのだろうか。〈わたし〉が物質世界をマルクトと見て、〈あなた〉も自分の見てる物質世界をマルクトと見なし、かつ、それら両者がもし同一のマルクトであるとしたら、〈わたし〉と〈あなた〉の間にはいかなる差異もないことになってしまう。しかし、これは世界の在り方の事実に全く反している。というのも、〈わたし〉には〈あなた〉の顔が見えているが、〈わたし〉自身の顔は見えていないということだ。顔とは、顔の前において世界が開示するという意味において、世界の中心とも言える場所である。その中心たる顔を〈わたし〉自身が見ることができないという事実は、世界の中心がまだ〈わたし〉のもとには開示していないということを如実に表している。
つまり、〈わたし〉において〈わたし〉の顔が不在となっているということは、存在の中心が常に欠如した状態として現れているということだ。もしくは,〈わたし〉は世界の中心が欠如したまさにその状態を〈わたし〉と呼んでいるにすぎない、ということでもある。そして、この欠如した中心=〈わたしの顔〉を世界の立ち現れの中に経験しているのは言うまでもなく〈あなた〉という存在である。ということは、世界の真の完成の状態、神が創造物の全体を自身の反映として見るという状態は、〈わたし〉が〈あなた〉のもとに赴き、そこで〈あなた〉の顔を見ている〈わたし〉の顔を見ることによってそこで初めて達成される、ということになる。このことは一体何を物語っているのか——。
つまり、神から見れば、〈わたし〉が目撃する〈あなた〉という存在の中にはすでに〈わたし〉が含まれており、〈あなた〉が見ている世界とは、その〈あなた〉の中に含まれた〈わたし〉自身が〈わたし〉の現出を〈わたし〉の顔貌として経験する全一の場となっていなければならないということだ。また、この逆のことも言えるだろう。すなわち、〈わたし〉の目の前には確かに〈あなた〉の顔が現前しているが、それは〈あなた〉という存在はすでに〈わたし〉をその中に含んており、〈あなた〉は〈わたし〉という存在を創造することによって、〈わたし〉を通して自分自身の姿を世界の完成した姿として見よう欲したのだ、ということである。〈あなた〉は〈あなた〉の創造物である〈わたし〉を通してこうして今、〈あなた〉自身の姿を見ているのだ。
このような関係で〈わたし〉と〈あなた〉の関係を見たとき、〈わたし〉にとって〈あなた〉が目にしている物質世界はもはやマルクトではあり得ない。〈あなた〉が〈わたし〉を通してみる〈あなた〉自身の顔は、あのアイン・ソフ、神が神を見る場所としてのケテル以外の何ものでもない。つまり、わたしがマルクトと呼ぶ世界は、あなたにとってはケテルとなっていると言わなければならないのである。
このように考えれば、ケテルの中に刻まれたヘクサグラムの形象の意味も自ずと明らかになる。それは〈わたし〉と〈あなた〉という存在の二重性の相互浸透性を意味するものであり、これはハシディズムの流れをくむ哲学者であるブーバーの言い方を借りれば「永遠の汝と我」の端的な象徴と言ってよいものとなる。この「永遠の我と汝」が対峙する場所をカバリストが言うように単にマルクトと見なしてしまえば、〈我―汝〉の関係はそれこそブーバーが言うように〈我—それ〉の関係に貶められてしまうしかない。なぜならば、カバラの教えにある通り、マルクトを底辺とするアッシャー圏の中には自我しか存在せず、そこに出現してくる他者は他の存在者と同じく「汝」ではなく「それ」へと還元されてしまうしか術がないからだ。つまりは〈わたし〉は〈あなた〉を他の創造物と同列に見てしまう以外、他のいかなる視座も持ちようがないということである。事実、人間の世界ではそれが頻繁に起こっている。〈あなた〉を〈それ〉として利用し、〈あなた〉を〈それ〉として拒絶し、〈あなた〉を〈それ〉として破棄する。そして、愛においてさえも〈あなた〉を〈それ〉として愛しているにすぎない。しかし、ブーバーが言うように〈我-汝〉の関係は決して〈我-それ〉というものには還元できない何ものかなのである。
ここに同じくユダヤ思想の影響を大きく受けた哲学者レヴィナスの言葉を引用してもいいだろう。レヴィナスは「他者は未来からやってくる」と言った。そして、他者の顔には「汝、殺すべからず」と書いてあるとも。これらの言葉の真意もまたブーバーの永遠の汝と我を通して読むとその真意がよく見えてくる。それは〈わたし〉の真の未来が〈あなた〉となって今、〈わたし〉の前に現前してきているということではないのだろうか。レヴィナスは宗教家ではないのでもちろん口に出しては言わなかったが、ユダヤ人としての彼が言いたかったことは、実は〈わたし〉の本性は神であり、〈わたし〉が創造者となってすべてをこの世界のすべて創造をし、その最終的な完成体として他者を創造した。そして、今、こうして、ここで〈わたし〉は〈あなた〉を目撃し、〈あなた〉もまた〈わたし〉を目撃している。だからこそ、他者の顔には「我こそは真の汝なり」という意味において「汝,殺すべからず」と書いてある、と言いたかったのではないか。おそらくケテルから見れば、自己と他者とは互いが互いの未来から互いの過去を神と人間の関係として見ているのである。そして、こうした永遠の汝と我の関係に人間としての〈わたし〉が気づいたとき、神は「神が神を見る」というあのケテルにおけるアイン・ソフの本質的意味に到達することになる。これは、世界の終わりと始まりの結節が出現することの意であり、ここに光の流出が起こるのである。
こうした論証だけでもユダヤの神が孕んでいる欺瞞は露になるのではないか。つまり、神が一者であるはずがないのだ。もし、神が全一における単一性として君臨しているならば、それは神の停滞であり、神の怠慢であり、神の欺瞞である。その欺瞞が〈わたし〉と〈あなた〉を同じマルクトの中に閉じ込めているのだ。カバラはその意味でまだ大きな矛盾をはらんでいる。カバリストたちがヤハウエと呼んできた神=一者は今こそ生命の樹におけるケテルの名において告発されなければならない。ユダヤ的ロゴスの最終的良心として。
——おわり
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 1 • Tags: カバラ, マルクト, ユダヤ, レヴィナス, ロゴス, 生命の樹