1月 11 2007
差異と反復………2
たぶん「差異」という言葉を難解に感じている人も多いかもしれない。単なる言葉の意味としてならば、それは「違い」と言い換えても何の問題もない。ただドゥルーズが執拗に追いかけていた「差異」とは、存在論的差異というやつである。もともとこの存在論的差異を云々しだしたのはハイデガーだった。存在論的差異とは、簡単に言えば、「あること=存在」と「あるもの=存在者」の違い、のことだ。「あるもの」は「あること」によってその存在を可能にさせている。「あること」がなければ「あるもの」もあるものであることを止めざる得ない。問題はこれら「あること」と「あるもの」、この両者の差異とは何か、ということである。しかし、ちょっと考えると、さらなる差異もある。「あること」と「あるもの」の差異を見ているのは人間じゃないかということだ。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在の有り様であって、ハイデガーはこうした存在を存在者とは区別し現存在と呼んだ。存在、存在者、現存在。。存在にもいろいろある。ドゥルーズは存在に潜むこれら諸々の差異の本性の中に思考を侵入させていこうとしたのだ。。。。話が難しい。
すでに思考停止した人もいるかもしれない。しかし、ちょっとした言葉の置き換えで、この哲学的命題は非常に分かりやすくなる。それは存在を「神」に、存在者を「被造物」に置き換えさえすればいい(まぁ、こういう乱暴な置き換えが許されればのことだが)。すると、存在論的差異とは、神と被造物との差異のことを言っているということになる。ただ神という概念は全体性への欲望を駆り立てるので、現代哲学は好まない。事実、ハイデガーの時代はすでにニーチェが登場して「神の死」の時代に突入していた。おまけに第一次世界大戦という歴史上未憎悪の惨劇が起こり、ヨーロッパ世界の存在そのものが危機に瀕していた。ハイデガーはカトリック教会の堂守の子で、幼少の頃は敬虔なクリスチャンだったのだが、彼はその神学的な欲望を哲学で果たすことによって、ヨーロッパ世界(ドイツ民族?)の救済をもくろんだのだろう。
さて、この差異だが、差異には必ず反復がセットがついてくる。というのも差異とは常に何ものかと何ものかの差異でしかあり得ないからだ。例えば、右と左の差異について考えるといい。こう言った瞬間にも、皆の首は右、左、右、左、とテニスの観客のように反復しているのではないだろうか。つまり、差異が反復を生むと言えるし、また反復の間に差異が眠っているとも言えるのだ。そして、反復という活動は人間の言語が二項対立的な図式のもとに成立している限り、必ずすべての認識につきまとってくるものとなっている。というところで存在論的差異の話に戻ろう。
ドゥルーズは世界が現れていること、これもまた反復であるという。一体、何が反復しているというのだろうか。それは端的に言えば、存在論的差異における反復である。存在論的反復とは、言葉の上で言えば、存在、存在者、存在、存在者………という反復のことになるが、これでは何のことか分からないので、再びさっきの言い方を用いてみる。すると存在論的反復とは、神と創造物の間の反復と言い換えることができる。つまり、単に存在する、とは言うものの、目の前に世界が現れているということは、創造における最初のものと最後のものとが一緒に重合しあった形で、その気の遠くなるような創造の距離を、おいっちに、おいっちに、と反復しているということである。こうした反復は僕ら人間には即自的反復(それそのものにおける反復)のようにしか見えないが、その背後にはニーチェのいう永遠回帰が働いているということなのである。——つづく
1月 12 2007
差異と反復………3
ドゥルーズ曰く、永遠回帰とは差異の極限的な先端において現れる。差異の極限的な先端とは、神が現在進行形として息づいている真の現在の場所と言い換えてよいかもしれない。そこでは〈全てが等しい〉という宣言のもとにもとに、すべての存在者の多様性が回収されている場所である。また逆に言えば、〈全てが等しい〉とする存在の暴力のもとから諸々の存在者たちが逃走しようとしている場所のことでもある。〈全てが等しい〉こととは神学的に言えば一者の振る舞いであり、これは多としての存在者が置かれた場所から望めば巨大な同一化の力として振る舞っている。ここには事物そのものが持つ本性上の差異は存在してはいない。
例えば、物質という同一性を考えてみるといい。すべてを物質で語り尽くそうとする科学が持った空虚なる全体性への欲望。科学に現れる種々の物理法則の中には差異の極限が持つ〈ただ一つの同じ声〉が押し並べて響いている。
例えば、今流行のデジタル空間という同一性を考えてみるといい。すべてを0か1のビット信号で覆い尽くそうとするコンピュータの欲望。ここには物質という同一性の中で戯れる差異なき差異を、非-物質というさらなる極限の同一性の中に葬り去ろうとする最終的な欲望が働いている。
すべての女を石女(うまずめ)にしてしまうメドゥーサの呪術。存在者の不妊化。差異のこうした去勢状況の中からは新しい子供たちは決して生まれてはこない。差異が存在しなければ、存在自身が持つ存在への反復力が及ぶべくもないからだ。
存在論的差異が持つ反復。ドゥルーズにおいてそれは意識のことに他ならない。意識とは存在と存在者の差異に生息している反復である。その意味で、僕らの目前に世界が現れ、それを現象として意識しているということは、僕らが意識する一瞬、一瞬の中に永遠回帰としての反復が絶えず繰り返されているということなのだ。今、今、今、という反復の中にも、僕たちの無意識は存在の一性との間で交信を繰り返している。その意味で言えば、現存在としての人間とは、その反復の中に着床した一つの宇宙卵〈space-egg〉と言える。
父を殺害してはみたものの、今度は父の亡霊に取り憑かれ、母までをも手にかける。そして、その屍体から卵巣までをも引きずり出して、母の胎内で生産されてくる卵子のすべてを踏み潰そうとする変態性欲。その性欲に僕らの現代はどっぷりとつかっている。その意味でも、今という時代ほど永遠回帰が問題とされなければいけない時代はない。存在が諸々の存在者をサウロン的な巨大な同一性の大洋の中に飲み込み、この大洋から差異のさざ波が消え去ってしまう前に、生命あるものはこの存在の暴力に対して徹底して逃走の道を、いや、反復不可能なる反復への往路を仕掛ける必要があるのだ。そのためには事物相互の本性の差異を見極めることが絶対不可欠である。。つづく。
By kohsen • 差異と反復 • 0 • Tags: ドゥルーズ, 差異と反復