7月 25 2014
エーテル空間、人間の無意識、そして死——太陽の内部へと侵入していくために
地球が自転している空間と地球が公転している空間は互いに反転しているという認識を持つことが大事です。これらにはシュタイナーがいうところの「地球的ー物質的なもの」と「太陽的ーエーテル的なもの」とのあいだにある対極性が典型的に表されているんですね。
そして僕らはこの対極性を自分自身の存在の内で意識と無意識という形で経験している。
地球を中心とした物質空間にチューニングを合わせて太陽を眺めても太陽の本質はおそらく何一つ明らかになることはありません。太陽とは実のところ、地球にとっての外延的なものが内包的なものとして反転して現れたものなんですね。
物質空間ではエーテル的なものは放射状に散らばって現れるが、反転した空間ではエーテル的なものは中心方向に凝縮して現れます。太陽の内部で核融合が起こっているのもエーテル的なものが進化を作り出していっているからなのです。
「かつて私たちを遠く取り囲んでいた周縁世界のなかで、私たちは、私は いまそのまっただなかにいると感じます。そして、かつて私たちがその上 に立っていた地上の世界を、私たちは私たちの中心的な外的世界と感じます」
ジョージ・アダムス『エーテル空間』シュタイナーの講演からの引用
アダムスはこれを分かりやすく次のように解説しています。
——要するに、私たちの現実的な体験にも、“ 中心的な外的世界 ” と言えるような世界があるということ、無限の拡がりへ 向かう視線ではなく、内へ向かう視線、ひとつの中心点へ向かう視線があるということなのです。『エーテル空間』P.36
ここで書かれてある「一つの中心点へと向かう視線」が作る空間が僕がいつも言っている「丸まった前の空間」というやつです。自分が自転するときに自分の位置を0点ではなく無限遠点(±∞)と見なし、+∞と−∞の両側から世界を挟み込んで回している感覚。。ここに一つの中心点が現れ、シュタイナーのいう”中心的な外的世界”が顕在化してきます。
シュタイナーはこの空間のことを「この世を去った人間が経験する空間」とも言っているようです。つまり、この「丸まった前の空間」は生の傍に常に寄り添っているにもかかわらず僕らが今まで気づくことのできなかった死の空間だということですね。そして、それが顕在化を起こしたということ。
地球の自転空間を公転空間に反転させるとその中心に太陽が現れることと、自分の自転空間を公転空間に反転させるとその中心に対象の位置の統一が出現することは深い関係を持っています。というのも、奥行きを虚軸と見立てた認識ではそこに物質粒子の構造性が出現するからです。(物質は局所的なものですが、物質を作る物質的粒子が非局所的な存在だということはもう多くの人が知っていることでしょう)
もっとも太陽は主にヘリウムの原子核までを生成していますから、”中心的な外的世界”はそこからもっと発展を遂げていかなくてはなりません。そのためには自他がともにこの「前の丸まった空間」を顕在化させ、互いの”中心的な外的世界”をより高いレベルで統合していくかなくてはなりません。詳細は専門的になるのでここでは書きませんが、この統合のプロセスが太陽の核融合として現れていると考えるといいと思います。
そして、この統合のプロセスが実は無意識の発達段階、言い換えれば人間の個体化のシステムになっているのです。
OCOT情報が太陽のことを人間の精神核(自我核)と呼ぶのはこうした理由からです。
12月 4 2015
高次の知覚器官の獲得のために
「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである」 –ベルクソン『思想と動くもの』
ベルクソンが彼の卓越した直観で言い当てた、この事象の在り方の真実をわたしたちは知性によって理解できるようにならなくてはいけない。われわれは対象の外部にいる存在ではない、対象の内部にいるのだ。そして、このベルクソンの哲学的直観を裏付け、さらにそこから成長していく内的空間の幾何学というものが存在している。
この幾何学は神秘学的にはエーテル体の幾何学と言っていいものだ。シュタイナーであればエーテル空間の幾何学と表現するかもしれない。エーテル空間の幾何学とは持続体が持った幾何学のことだと考えるといい。純粋持続が真の主体の異名だとすれば、それは「見るもの」を組織化している幾何学と言っていい。
人間は幾何学を空間的にしか思考しない。プラトンのいう完全な三角形や円や球という常住不変のイデアにしろ、そこには依然として空間の表象がつきまとっている。イデアを持続の空間として見る思考が抜け落ちているのだ。
幾何学を決して「見られるもの」の中で思考してはいけない。幾何学の本質は「見るもの」そのものが携えている形相にあると考えなくてはいけない。精神の形相というものが存在しているのだ。それが高次元の幾何学が意味していることだ。そこは「見られるもの」たちのように尺度に支配された世界ではない。
数学の世界にトポロジーが出現してきた理由も、この持続体が息づく場所の論理を表現するための思考を人間の知性のもとにもたらすためだと考えよう。一体、こんなことを研究して何の意味があるのかと思われている現代数学の様々な研究群も、人間がこれから進むべき空間を前景化して、予見しているのだ。
シュタイナーは確か時間が空間化した世界のことを「アカシヤ界」と呼んでいた。持続体の空間とはまさにこのアカシヤ界のことと言っていい。そして、この持続体もまた捻れや、切断や、交差や、融合、階層化といったような運動の形態を持っている。これらは高次元空間の図式のようなものには違いないが、これらについてこれらとともに人間が思考を行なっていくことは、従来の図式的思考と決して同列に扱われるべきではない。
人間が行なう図式的思考は「モデル」にすぎないが、純粋思考が図式化していく高次の空間とは「イデア」である。これはシュタイナー風に言えば、おそらくエーテル知覚を行なうための知覚器官の形成のようなものなのだ。この知覚器官が作り出されなければ、おそらくエーテル体の生態も見えてくることはないだろう。
「カタチとは見られるものではなく、見るもののことです」–by OCOT
ヌーソロジーが提唱する複素空間認識とは、まさにこのエーテル知覚を行なうための知覚器官の組織化のことであり、ここで認識されてくるものがまさにOCOTのいう「カタチ」のことなのだ。
素粒子とは、その意味で、わたしたち人間が内在性のうちに保持している第一の精神器官だと言えるだろう。
時間の空間化は、神秘家の内なる魂の在り方を変えてしまいます。「時間」がもはや存在しなくなるのですから。–R・シュタイナー
今回の「シュタイナーとヌーソロジーのコラボ本」では、こうした内容について詳しく論じた。読者はシュタイナー霊学が現代物理学と矛盾なく接続する現場をあからさまに目撃することになると思う。お楽しみに。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: イデア, エーテル, シュタイナー, プラトン, ベルクソン