7月 22 2014
ドゥルーズの「差異」と量子力学のおいしい関係
電気的なものが感覚や記憶と深い関わりを持っているということは脳のメカニズムからも明らかなことだと思いますが、いかんせん、電気のもととなっている電荷自体が何であるのかということを誰も知りません。電荷になぜ+と−があるのか、存在世界はなぜ電気を活動源としているのか——物理世界における最小の差異とも呼んでいいようなこの電気的なものは、実は創造における最初のトリガーとも言えるものなんですね。。
OCOT情報では電荷のことを「最小精神の対化」と呼ぶのですが、これは創造的知性(ヌース)が同一性から抜け出すときに生み出した最初の反転の痕跡と言えるものです。同一性から抜け出すところにあるもの。それをドゥルーズは「差異」と呼びますが、ドゥルーズに拠れば、差異とは「感覚されるもの」ではなく「感覚させるもの」です。だから、差異は感覚によって見出すことはできません。文字どおりヌース(能動的知性)によって思考することによってしか顕在化してこないものなのです。
さて、差異というと、普通、僕たちは或るものと別の或るものの間にある違いのことと考えてしまいます。しかし、そういった差異は「同一性に従属した差異」にすきず、差異本来の差異ではありません。ドゥルーズが言う差異とは存在論的差異のことであり、存在そのものからはみ出していくような差異のことを言います。だから、それは何か別のものとの比較で生じるような差異ではなく、それ自身における差異(即自的差異)として出現しなくていけません。つまり、それ自身がそれ自身との間に差異を生み出すということなのです。
喩えて言えば、目の前にライターがあるとして、そこに差異が生じるとそのライター自身がその上にもう一つ同じライターを別のものとして重ね合わせている。そういったような雰囲気です。そして、そういった差異があるからこそ、このライターはライターとして感覚化されている。。おいおい、一体、何のこっちゃ?というのが大方の反応でしょう(笑)
ドゥルーズも『差異と反復』という著書で、この差異について長大な解説を試みているのですが、いかんせん哲学や精神分析の専門用語で埋め尽くされていて、哲学の専門家でさえすぐには理解できない代物になっています。一般人は間違いなく秒殺されますね。かくゆう僕なんかも最初はそうだった。出足の1ページすら読めない(笑)。しかし、不思議なことにOCOTから学んだ「観察子空間」のイメージを重ね合わせて読むと、なぜかスラスラと分かる。それも、ドゥルーズが分かっていないところまで分かる。。
さっきのライターの話なら、次のように考えるといいと思います。僕らは普通、目の前にライターがあったら、ライターを取り巻いている空間も一つしかないと思っています。しかし、反転した空間が思考されてくると、取り巻きの空間も二つあるということになってきます。この二つの空間の間に生じているのが「差異」です。「即自的差異」なんて哲学的なジャーゴンを使うより遥かに分かりやすいですよね。
ドゥルーズはこうした差異が微視的な領域で微粒子(ガタリだったら「分子的なもの」)として生成していると言います。ドゥルーズが〈差異化=微分化〉という言い方を頻繁に用いるのも、こうした差異の領域が微分によってしか露わにできないような、実際の空間では潜在化して深く埋もれてしまったところにあると考えているからです。
でも、ドゥルーズのこの微分概念への接続はあまりうまく行っていません。数学に疎い僕から見ても何か大事な概念が抜けている感じが否めないのです。それはドゥルーズが微分を実関数の微分で説明しようとしているからかもしれません。実数の世界は同一性の数的表現なので、存在そのものに対する差異をたとえ微分と言えども実関数の微分で数学的に説明するにはちょっと無理があるように思われるのです。
そこで、このような「差異の数学的表現」の候補として浮かび上がってくるのが複素数です。複素数が実数に対して絶対的な差異を持っているのではないか、というのは直観で皆さんも何となく分かるのではないでしょうか。実際に巨視的なレベルでの自然界には複素数で表現されるものなど一つも存在していません。しかし、唯一、微視的な領域において素粒子なるものがうごめいていて、それらは量子論的対象としてすべて複素数でしか記述することができない代物なのです。存在の仕方が根本的に異なっているんですね。まさにドゥルーズのいう〈差異化=微分化〉の条件にピッタリの存在だということが分かります。こうして、差異→反転→量子世界への接続というヌーソロジーの極太の思考線が引かれることになります。
このような「反転の思考」によって空間に生じてくる差異が量子力学とどのような関連を持っているかというと、実はここで生じる相互に反転した二つの空間というのが、量子力学の位置空間と運動量空間という概念と密接な関係を持ってくるということなんですね。この両者は僕がFBでいつも紹介している複素平面における実軸と虚軸の関係と同じものです。
「位置空間」というのは量子がどこに位置しているのかを見る座標空間(x,y,z)のことです。僕らが普通に3次元空間と呼んでいるもののことと考えて構いません。問題は運動量空間の方です。量子力学では運動量空間は波数空間とも呼ばれ、位置空間が反転したものとして概念化されています。と言って、その空間が物理学者たちに描像できているわけではありません。数学的なお約束事として概念化されているだけです。
つまり、何が言いたいかというと、反転した空間としての即自的差異は量子力学が運動量空間と呼ぶものとなってすでに形式化されているということなんですね。そして、これが僕がいつも言っている「奥行き」の空間に相当しているということなんです。幅で作られた3次元と奥行きで作られた3次元は互いに全き反転関係にあるということ。奥行きこそが実は「差異」だということ。こうした概念を作り出すことが同一性から逃れるためにとても重要だということなんです。実際、ドゥルーズも次のように言っています。
「ところが、その根源的深さの方は、たしかにまったき空間であるが、しかしそれは、強度量[内包量]としての空間、つまり、純粋なスパティウムspatium[空間]なのである」
『差異と反復・下』p.166
ここでで「根源的深さ」と称されているものは「奥行き」のことです。スパティウムというのは「内包空間」のことですが、簡単に言えばこの内包空間とはモノの内部側に入り込んでいる空間のことです。奥行きはモノの外部にあるのではなく、あるがままで実はモノの内部にあるということなんです。ただ、人間は現在、この奥行きに幅を想像してしまっているためにそれが分からないわけです。だから差異としての運動量空間(強度的空間)は潜在化したままになっていると考えて下さい。
OCOT情報は電荷とは運動量空間が極限にまで収縮したものと伝えてきています。もしこれが真実だとすると電荷の+と−の本質とは自己と他者が持ったそれぞれの精神の発芽の力のようなものだと言えます。磁荷はその反対物とも言える位置空間の核のようなものに当たるのでしょう。モノポールが発見できないのも自他における位置空間の同一化(3次元の空間認識)によるものだということになってきます。
位置空間に同化してしまった視線と本来の奥行きとしての視線(運動量空間の視線)を僕たちは注意深く峻別しなくてはいけません。前者は対象の手前に「わたし」をセットしますが、後者においては「わたし」は対象の内部にセットされています。これが「見られているわたし」と「見ているわたし」の基礎です。見ているわたしの方は知覚そのものとして在り、そこには持続と記憶が同時に保持されます。一方、見られているわたしは3次元空間内に位置を持つものとして把握されます。
このような相互に反転した空間の中で「わたし」の原型は立ち上がっているのだと考えましょう。反転の概念がいかに「差異」を理解しやすくするか少しは分かっていただけたのではないかと思います。
「表象は一般的には質的に異なる二つの方向、表象されえない二つの純粋な現存に分割される。ひとつはわれわれを一気に物質のなかに置く知覚の方向であり、もう一つはわれわれを一気に精神の中に置く記憶の方向である」
ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』p.18
ドゥルーズの哲学は幾何学化されなくてはならない——というのが僕の持論です。そして、それがヌーソロジーであるとも考えています。
12月 12 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その1
1.ドゥルーズのいう「差異」って何?
次回のヌースレクチャーではドゥルーズ哲学とヌーソロジーの擦り合わせを行っていこうと思っています。レクチャーのための準備作業ということで、今日から約2ケ月間の間、ドゥルーズ哲学とヌーソロジーの共通点について、いろいろとつぶやいていこうと思います。
ドゥルーズ哲学は別名、「差異の哲学」とも呼ばれているのですが、最初に「?」となるのは、この「差異」という言葉の意味です。おそらく、ネットで調べても、この「差異」に関しては、いろいろな人がいろいろなことを言ってるので、混乱を起こすと思います。
この差異は普通、僕らが「これとこれは色が違うね」とか「君と僕は考え方が違うね」とか言うときの、「違い」のことなんかでは決してないので、まずはそこをしっかり押さえておいてください。80年代のイケイケ資本主義の時期に「差異の戯れ」とかいう言葉が流行ったので、それとゴッチャになってる。このへんは紹介のされ方にも問題があったかも。。
ドゥルーズのいう「差異」とは、一言でいうと「存在と生成の差異」なんだね。「あること」と「なること」の差異。抽象的で分かりにくいけど、誤解を恐れずにキリスト教的言い回しで言えば、「創造されたものの世界」と「創造するものの世界」の差異のこと。つまり被造物の世界と創造者の世界との差異なのね。
で、ドゥルーズはこの存在と生成の差異を見極めるためのとっかかりを、まずはベルクソンの持続概念の中に見たの。創造された世界では時間が存在として君臨しているのだけど、創造する世界では純粋持続が別の根源的時間の中で生成の運動を行っていて、その持続の多様な活動の中から存在が出現してきたのだと。要は、存在より生成を重要視するわけ。
存在が支配する世界では、事物はすべて存在するものであって、なるもの、つまり、生成にはなり得ない。今の人間の意識の世界は、こうした存在が持った一義性に支配されていて、すべてが、「何々がある」とか、「何々である」とか、この「ある」という、英語で言えばBe動詞によって支配されているわけだね。
世界のこうした現前の仕方の中で活動する人間の意識状態のことを、ドゥルーズは「現働的なもの」と呼び、一方、こうした存在としての活動を生み出した生成の世界はこの「現働的なもの」の裏側で「潜在的なもの」として働いている、とします。ドゥルーズのいう差異とは、この両者の間にある差異のことです。いや、より正確に言えば、〈現働的なもの-潜在的もの〉というように、現働的なものが表に出て潜在的なものが裏に回った世界と、〈潜在的なもの-現働的なもの〉というように、潜在的なものの方が表に出て現働的なものが裏に回った世界との差異です。
ドゥルーズ哲学にはこうした「差異」に対して「同一性」という言葉が頻繁に顔を出します。この同一性とは、さっきいった「存在」とほぽ同じ意味と考えていいです。人間の世界が成立している根拠を与えているもののことであり、ドゥルーズはここに神、自我、表象の連携を見ます。
ですから、ドゥルーズにとって「差異化する」とは、神、自我、表象を逃れ、人間の思考に巣食うあらゆる同一性から逃れている「潜在的なもの」の次元へと、つまり「なること」の次元に向かって、人間を人間ならざるものへと解放していくことを意味しています。——今日はこのへんで。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: ドゥルーズ