12月 24 2014
ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その3
3.ドゥルーズが研究した哲学者たちとそのキーワード・「ヒューム」/経験論」
『差異と反復』を発表する前の初期のドゥルーズはヒューム、ベルクソン、スピノザ、ニーチェといった哲学者たちの思想を研究していったんだけど、『差異と反復』で結晶化してくるドゥルーズ哲学の形(なり)を見ると、ドゥルーズは半ば確信犯的にこれらの哲学者たちを追いかけていったのだな、ということが想像されてくるんだよね。ここで「確信犯的」と言ってるのは、ドゥルーズには実は最初から自分が構築していくべき哲学のビジョンというものが明確にあって、その構築に向けて必要となる哲学者たちをチョイスし、これから自分が作り上げるべき思想に沿って、彼らの思考の足跡を分析、解釈していったふしがある、ということなの。麻雀で言う「決め打ち」ってやつかな^^。そして、引きが強いドゥルーズは自分の直感通りに牌を引いてきた。もちろん、最終的に「ロン!!」というところまでは行けなかったのだけど、僕的にはドゥルーズは役満をテンパってると思ってる。あとは世界が当たり牌を振り込んでくれるのを待つのみってところ。そこでウラドラの役割を果たすのがヌーソロジーかもしれない。。上がりのオマケがポコポコついてくる。ダブル役満!! トリプル役満!!\(^o^)/ ってな感じで(笑)。
で、若き日のドゥルーズが「確信犯的」に何を目論んでいたのか、ということなんだけど、これは一言でいうなら「主体性の哲学からの脱却」と言っていいと思うよ。「主体性の哲学」とは、簡単に言えば、いつも「オレ、オレ」とか「わたし、わたし」といった囁き声が中心にあって、そうしたかしましい自我中心体から抜け出ることのできない思考から組み立てられた哲学、のこと。「われ思うゆえにわれあり」と言い放ったデカルトの哲学などはその典型だね。こうした自我中心の哲学を解体すること。ドゥルーズの思考はスタートから、そこだけに照準を向けて蠢めき出したように見えるんだよね。
そこで最初に研究したのがヒュームという哲学者だった。何でヒュームかというと、ヒュームは「経験論」の哲学者として「合理論」の哲学者であるデカルトを徹底して批判してたから。経験論とは、一言でいえば、主体は経験によって立ち上がってくると考える哲学のこと。デカルトのように「我」が理性とともに最初から意識を支配しているのではなく、主体(人間の心)というものは、本来、経験の寄せ集めのようなものでしかなく「知覚の束」として立ち上がってくるとする考え方。「わたし」が世界を経験しているのではなく、世界の経験が「わたし」を作ってるという考え方だね。
こうした経験論の哲学で重要視されるのは、理性によって客観化された世界の事物云々ではなく、主観によって現実的に経験されている知覚世界の方であり、またその知覚とともに活動している情念の力の方ということになる。実際、ヒュームは「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである」とまで言ってるんだよね。そして、否定しがたい事実として、僕ら生身の人間にとっても、情念の力の方が理性の力よりもいい意味でも悪い意味でも勝ってるというのは明白なところ。ここに、すでに主観的なものの方向に意識の脱出口を求めるドゥルーズの思考の萌芽があるんだよね。「合理論」より「経験論」の重視。客観(理性)より主観(感性)の重視(正確には「主体なき主観」といった方がいいけど)。これがまずドゥルーズの第一の立ち位置と思ってもらえばいいよ。
3月 13 2015
今日から、君がカタカムナだ!!(笑)
今日もカタカムナ関連で少しだけ。
アマとカムのムカヒというやつだけど、アマを「幅」に、カムを「奥行き」にダイレクトに当てはめていいと思うよ。ヌーソロジーでいう人間の内面と外面の対向性ってやつだね。これらはアカ(現象性)とアオ(潜象性)の関係でもあるね。つまり、NOSとNOOSってこと。NOSは赤色、NOOSは青色。よくできてる(^^)
現象の把握はアカとアオの混合から成っている。これをカタカムナは「アヤ」って呼んでいるようだ。「アヤしい=怪しい」のアヤ。「あやとり=綾取り」のアヤでもある。要は、混ざり合ってよく分からなくなっている状態のこと。これはベルクソンが言ってた「延長と持続の混雑」と同じこと。アカとアオの区別を認識に上げることが、いわゆるベルクソン=ドゥルーズのいう「差異」。
たとえば、目の前に3次元座標の空間を「イメージ」してみよう。この時点で、すでに幅と奥行きはヨコ回転したり、タテ回転したりして互換重合し、混じり合っている。ただ、人間の意識にはカム=奥行きの方は潜在化してしまって、アマ=幅が作り出す3次元空間だけが想像的な対象として浮上してくる。カムのほうは。このときミチ(持続)として働いているんだね。
「考える=カムカヘルとカムカエル」とはくだらないダジャレのようでもあるけど、とても本質をついている。人間に思考を強制させているもの、つまり、考えたくなくても考えざるを得なくさせているものとは、まさに、この潜象化している「カム」の力によるものだ。このカムこそが「思考サレルベキモノ(ドゥルーズ)」なんだね。
カタカムナに拠れば、アマは膨張性、カムは収縮性として働く。アマがカムに方向を持つことは「アマナ」と呼ばれ、「アマナ」はそのまま原子核の意となる。このへんは直球ストレートでほんとに気持ちがいい。幅として生まれでた現象性はカムのミチを通じて物質の根源へと回収されているってことなの。もちろん、この流動は人間の意識においては無意識化されているんだけどね。
OCOT情報は「カタカムナ文明とは前次元の覚醒期の知識です」と言っていた。楢崎さんはなぜそれが滅びたのは分からないと書いていたけど、それもまた「アマとカムの交替性によるもの」というのがOCOTの言い分。つまり、意識の在り方というもの自体もマワリテメグルものだということ。
まもなく、時代空間はアマウツシ(幅支配の世界)からカムウツシ(奥行き支配の世界)へと交替化を起こしていくよ。そうすれば、新しいカタカムナ文明が立ち起こってくることになる。ヌーソロジーの作業もまたその一つの息吹のように強く感じている。
カタカムナを学んでいる人は、是非、現代物理学やドゥルーズ哲学をゆっくりでいいので並行して学んでいくといいと思う。そして、それを知識として所有するのではなく、カム(奥行き=持続)を通してそれと一体化していく思念を育てて行くこと。そうすることによって明確なカタチ(構造性)と意志(新しい主体性)が生まれ、OCOT情報のいう「力(ちから)」が生まれてくる。ヌーソロジーが目指すのもそうしたカムナガラノミチそのものとしての身体性の獲得なんだね。だから——
今日から、君がカタカムナだ!!
なんか、カタカムナの宣伝マンになった感じ(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, カタカムナ, ベルクソン, 奥行き