3月 13 2015
今日から、君がカタカムナだ!!(笑)
今日もカタカムナ関連で少しだけ。
アマとカムのムカヒというやつだけど、アマを「幅」に、カムを「奥行き」にダイレクトに当てはめていいと思うよ。ヌーソロジーでいう人間の内面と外面の対向性ってやつだね。これらはアカ(現象性)とアオ(潜象性)の関係でもあるね。つまり、NOSとNOOSってこと。NOSは赤色、NOOSは青色。よくできてる(^^)
現象の把握はアカとアオの混合から成っている。これをカタカムナは「アヤ」って呼んでいるようだ。「アヤしい=怪しい」のアヤ。「あやとり=綾取り」のアヤでもある。要は、混ざり合ってよく分からなくなっている状態のこと。これはベルクソンが言ってた「延長と持続の混雑」と同じこと。アカとアオの区別を認識に上げることが、いわゆるベルクソン=ドゥルーズのいう「差異」。
たとえば、目の前に3次元座標の空間を「イメージ」してみよう。この時点で、すでに幅と奥行きはヨコ回転したり、タテ回転したりして互換重合し、混じり合っている。ただ、人間の意識にはカム=奥行きの方は潜在化してしまって、アマ=幅が作り出す3次元空間だけが想像的な対象として浮上してくる。カムのほうは。このときミチ(持続)として働いているんだね。
「考える=カムカヘルとカムカエル」とはくだらないダジャレのようでもあるけど、とても本質をついている。人間に思考を強制させているもの、つまり、考えたくなくても考えざるを得なくさせているものとは、まさに、この潜象化している「カム」の力によるものだ。このカムこそが「思考サレルベキモノ(ドゥルーズ)」なんだね。
カタカムナに拠れば、アマは膨張性、カムは収縮性として働く。アマがカムに方向を持つことは「アマナ」と呼ばれ、「アマナ」はそのまま原子核の意となる。このへんは直球ストレートでほんとに気持ちがいい。幅として生まれでた現象性はカムのミチを通じて物質の根源へと回収されているってことなの。もちろん、この流動は人間の意識においては無意識化されているんだけどね。
OCOT情報は「カタカムナ文明とは前次元の覚醒期の知識です」と言っていた。楢崎さんはなぜそれが滅びたのは分からないと書いていたけど、それもまた「アマとカムの交替性によるもの」というのがOCOTの言い分。つまり、意識の在り方というもの自体もマワリテメグルものだということ。
まもなく、時代空間はアマウツシ(幅支配の世界)からカムウツシ(奥行き支配の世界)へと交替化を起こしていくよ。そうすれば、新しいカタカムナ文明が立ち起こってくることになる。ヌーソロジーの作業もまたその一つの息吹のように強く感じている。
カタカムナを学んでいる人は、是非、現代物理学やドゥルーズ哲学をゆっくりでいいので並行して学んでいくといいと思う。そして、それを知識として所有するのではなく、カム(奥行き=持続)を通してそれと一体化していく思念を育てて行くこと。そうすることによって明確なカタチ(構造性)と意志(新しい主体性)が生まれ、OCOT情報のいう「力(ちから)」が生まれてくる。ヌーソロジーが目指すのもそうしたカムナガラノミチそのものとしての身体性の獲得なんだね。だから——
今日から、君がカタカムナだ!!
なんか、カタカムナの宣伝マンになった感じ(笑)
11月 13 2015
ミクロとマクロの狭間で
「わたしたちの意識は知覚を通して素粒子世界に巻き込まれていっている。ちょうど、お風呂の栓を抜いたときに、渦ができてお湯が排水溝の中に巻き込まれていくように、目の前の知覚空間は持続の渦となって時空の外部である内部空間の方向に吸い込まれていっている」
分かりやすく喩えると、これが顕在化が始まったときに生まれてくる目前の空間イメージになる。
このことに関して、数学に強いΦさんとツイッターで簡単な意見交換をした。物理学と哲学をどう接合させるかという問題についての話なので、言葉は難しいが、結局のところミクロとマクロは一体どういう関係になっているのか、という話だと思ってくれればいい。
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@kohsen 外延量を基礎づけるものとしての微分化領域。それが知覚の場に他ならない。世界はいつもめまぐるしく動いているが、「わたし」は動いていない。この動いていない「わたし」こそが微分化領域に住まう霊である。世界の重心をミクロ世界へと移動させるときがやってきている。
@whyanywhere そうですね。単なる数の延長としての波動関数(正確には場の関数)に作用する、微分演算子を含むq-数としての物理量こそ、まさしく観測可能量(オブザーバブル)であり、知覚の場なのだと思います。ある意味、内包量としての波動関数(場の関数)はそれだけでは閉じることができず、外延量に転換できる演算子という観察の作用を受けて、初めて世界を閉じることができるのかもしれませんね。
@kohsen Φさん、この内包→延長の問題は哲学では、ライプニッツを始まりとして、カント→コーヘン→ドゥルーズと受け継がれている問題系なのですが、ドゥルーズは微分を実関数でしか語っていません。実関数の微分が内包量に行き着くことは直観的に「?」なのですが、Φさんはどう?
@whyanywhere 複素関数(あるいは超複素数の関数)ではなく実関数の微分だと、量子化という概念を数学的にうまく組み立てられないのではないでしょうか?
@kohsen ありがとうございます。ドゥルージアンはドゥルーズ哲学の自然哲学へのリンクを盤石なものとするためにも、この微分化の問題についてもっと突っ込んだ議論をしていかないといけないのでしょうね。
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ドゥルーズの物質論にとって微分化の概念は命綱になっている。物理学者ソーカルらに叩かれたのも、ドゥルーズが『差異と反復』で示した差異化=微分化論が数学的に極めて曖昧な論述になっていたためだ。差異化=内包化は数学的形式としては複素数と関わっている。その現象化が素粒子だと考えるといい。ここはドゥルーズ哲学の命綱だ。
微分というと、僕らは無限にミクロの世界のこととして考えてしまいがちだが、おそらく、反転認識においては、微分と積分のイメージも逆になっていると考えないといけないのかもしれない。ドゥルーズのいう差異化=微分化とは実のところ、経路積分のような「積分」として捉えられるべきであり、潜在的なものの現象化である「繰り広げ」の方が波動関数の「微分」として表現されているのかもしれない。実際、量子力学では運動量やエネルギーといった物理量は波動関数の空間微分や時間微分によって導出されてくる。素粒子世界から見れば、時空世界の方がミクロなのである。
そう言えば、OCOTも言っていたっけな。「時空は、わたしたちにとっては最もミクロの世界なのです」と(笑)
「時空の中に落ちた意識はミクロすぎて見えません」「宇宙について考えるときは、あまり意識をあなたがたにとってのマクロ方向に向けないようにして下さい。位置が見えなくなります。」etc。空間の幅を広げれば広げるほど、逆に奥行きの力は薄まっていく。というわけだ(笑)。真のマクロ宇宙はこころの方向にあるということだよ。
NASAがどのような発表をしようが、「宇宙には太陽系しかない」というヌーソロジーの考え方は変わらない。恒星は太陽の仲間というよりも、太陽が高次に反転を行なっているものである。言って見れば、エーテル核とアストラル核の関係にあるもの。無数の銀河は恒星がさらなる反転を行なっている方向。
宇宙空間は現代科学が考えているような均質で平板的でのっぽらぼうな延長のようなものでは決してない。そこには無数の次元が折重なっている。科学の眼にはそれが見えてないから、奇妙なアウタースペース信仰がまかり通っている。科学的宇宙観にダマされてはダメだよ。天体群の本質もまたわたしたちの内的なものを支えている精神の活動の映し絵なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: 波動関数, 顕在化