1月 30 2017
資本主義機械にバグは起こり得るか
ドゥルーズ=ガタリは無意識の位相を「欲望する諸機械」と「器官なき身体」の二つに分けた。人間の歴史は「欲望する諸機械」によって生産の生産、登録の生産、消費の生産として駆動してきたとし、こうした生産機構を原始土地機械、専制君主機械、資本主義機械と呼んだ。
これらは人間における三つの体制を作り出す三つの無意識脳と言える。分かりやすく言うなら、母性脳、父性脳、オイディプス脳と順に言い換えてもいいだろう。多神教的(生産)なものから一神教的(登録)へと移り、そして神を主体の中に理性(人間性)として内在化するオイディプス(消費機械)へと至る。
父を殺し、母を犯す。これがオイディプスの宿命なわけだが、資本主義の横暴を見る限り、この神話的象徴化は見事に当たっている。神を抹殺し、自然を凌辱して突き進む資本主義機械が持った消費の生産に対する尽きることのない欲望。これらの転変を僕らは文明の進歩と呼んでいるわけだ。
ドゥルーズ=ガタリの予想によれば、この無意識の流動は資本主義機械の位相を最後に「欲望する諸機械」から「器官なき身体」へと反転する。永遠回帰のドゥルーズ=ガタリ的表現だ。他者構造から自己構造へ。受動的なものから能動的諸力へ―ということだろう。これは宇宙的な性倒錯の是正、もしくは運命愛の奪還と言ってもいい。
ドゥルーズ=ガタリは明言しなかったが、「欲望する諸機械」とは「器官なき身体」の転倒によって作動していた、とするのはどうだろう。シオリズム的に言うなら、カムナがアマナを抱っこしたままで、アマナを内から支えることを思い出せずにいた、ということになるのだが。
そこで、「アマナを内から支えるとは一体どういうことか」が問題になる。それはわたしが他者の視線によって支えられているのと同様、わたしの奥行きが他者の経験的自我を支えているということを知るということ。そのことに他ならない。世界の裏地を知るとはそういうことだ。
いや、ただ知るだけでは力は生まれない。そこで展開されている四つ組みの構造が物質の基盤となる素粒子たちの本性だというコンセンサスを科学のコミュニティーが見出すこと。これによって知性は物質の腹わたを内側から食い破り有機体的生を破裂させ、器官なき身体の位相へと流れ出ていくことができる。
資本主義機械は絶えず外部を開こうとする欲動を持っている。しかし、同時に力を内部へと回収し、抑制-抑圧する機構も装備している。民主主義に始まり、労働組合、規制緩和、そしてTPP等etc。全体の自由度が高まるほどまた個への抑圧も強くならざるを得ないという何ともアイロニックなシステム。
こうしたフィードバックのシステムをドゥルーズ=ガタリは公理系と呼ぶ。解放と束縛の間を反復する成長螺旋。これが資本主義の公理というものなのだろう。ここにおいて物質的現実と霊的夢想は常に切断され、夢は常に単なる消費の中へと引き戻される。
わたしたちの高次世界への希求が音楽や映画や文学などを通して消費されていくのも、その抑制-抑圧の一種だと言えるのかもしれない。内破への圧力はこうして常に制御され、器官なき身体への進入を阻止し続ける。
この資本主義機械の回路の中に何か異性体を混入させる術を考えないといけない。それが流通することによって資本主義機械自体がバグを起こすような異性体を。
2月 28 2018
ヌーソロジーの弁明—簡明なものを底支えするために
ヌーソロジーはOCOT情報というチャネリング情報をベースに構築中の現在進行形のコスモロジーだ。スタイルとしてはグノーシス的なのだが、神秘主義的観想というよりも、幾何学的瞑想を通した空間認識の変革というメソッドを採っている。「トランスフォーマー型ゲシュタルト」と呼ぶものだ。
この幾何学はいわゆるイデア(精神の形相)に相当するものだが、ただ、この幾何学が正しいものかどうかという保証はどこにもない。そこで、とりあえず、その正当性を確認するための作業が必要となる。
イデアなのだから、それは物質や意識の発生論的境位に深く関わってないといけない。果たしてOCOT情報が伝えてきた幾何学的布置が本当にイデア足りえるかという吟味、裏取りが必要なわけだ。厄介なことに、このような発生論的分野を語っている信頼できる筋は物質なら現代物理学、意識については哲学しかジャンルがない(伝統的宗教やオカルティズムは、それこそ人間の体制によって大きく捻じ曲げられているように感じる)。
そこで致し方なく、その説明はシリウス言語、物理学用語、哲学用語という、ジャーゴン(難解な専門用語)のトリニティで埋め尽くされてしまうことになる。望んでやっているわけじゃないのだが、他に材料が見つからないのだから致し方ない。
今は、そうした七面倒くさい裏取りをやっている段階なので、複雑で難解に見えるかもしれないが、裏が取れれば、物理学と哲学の言葉はおそらく不要になるのではないかと思っている。というのも、シリウス言語自体、その両者が融合したような新種の概念で網羅されているので、その概念の工事が終了しさえすれば、そういった重たい道具類は不要になるのではないかと考えているからだ。ヌーソロジーが幻視する新時代にとっては、精神=物質なのだから、まぁ、これは当然の話ではあるのだが。
ただ、裏取りに哲学と物理学が必要になると言っても、その道の専門家からすれば、おそらく、ごく基本的な内容に止まっている。そんなに深く足を突っ込む必要もないだろう。哲学にしろ、物理学にしろ、それを本格的にマスターしようと思ったら、それこそ一生を要するような学問だから、そこに固執していては本流から逸脱してしまう。ヌーソロジーが吟味のために採用しているのは、ドゥルーズの哲学と量子論~素粒子物理のそれぞれ初歩的な部分のみだ。
ドゥルーズに触れて約15年ほど経つが、ドゥルーズの哲学には過去の反体制の哲学の集大成のようなところがある。僕なりに言わせてもらえば、その情動はニーチェであり、その倫理はスピノザであり、その論理はベルクソンであり、その美学はライプニッツである。といったところか。デカルト-カント-ヘーゲルといった体制派の哲学者たちをドゥルーズは常に対岸に見ている。
ニーチェからは永遠回帰(能動的ニヒリズム)、スピノザからは永遠の相(第三の認識)、ベルクソンからは純粋持続(生命的跳躍)、ライプニッツからはモナド(逆モナド)というキーワードをそれぞれ引き出すことができるだろう。ドゥルーズの頭の中ではこれらはすべて美しく繋がっている。
ドゥルーズは「差異」という概念を執拗に訴えるが、要は、新しい時空間の創設を呼びかけているのだ。人間が受動的ニヒリズムの中で自動機械のようにして生きるのではなく、能動的ニヒリズムを持ってアナーキーな存在へと変身できるような場所。そのような解放区(ノマド)を作り出すこと。ドゥルーズにとってそれは理念的空間への侵入を意味している。ドゥルーズ哲学の別名でもある「超越論的経験論(超越論的なものを経験の範疇へと取り込んでいくこと)」というのも、その侵入の意味だと考えていい。
ここで言われている超越論的なものというのは、人間の意識経験のすべてを可能にするためにウラで働く無意識のようなものだ。その無意識の自動機械のような営みの中で、人間は「人間」という体制を余儀なくされ、イメージと言語の生産に躍起となっている。その生産の反復は資本主義機械が紡ぎだす脱領土化/再領土化の中で消費され、その延々と繰り返されるクリシェは、今や大地さえをも回復不可能な状態へと追い込んでいる。
誰もが飽き飽きしているにもかかわらず、それ以外に欲望の持って行き所が分からない。この悪夢のような自動機械(無意識の欲望機械)から逃れる手段はただ一つ——この機械の回路を裏返し、経験不可能とされるこの超越論的なものを経験可能なものにするしかない。ドゥルーズの哲学が「反転の哲学」と呼ばれる所以もここにある。すべてを裏返すこと。ヌーソロジーはここにOCOT情報とドゥルーズ哲学の完全な一致を見ているわけだ。
資本主義機械のチューンを狂わせるためには、まずは、すべてを裏返して見ることのできる知覚を作り出さなくてはいけない。この知覚器官はたぶん思考以外にないだろう。感性の反動として生まれている思考でなく、感性そのものを能動的なものへと変えるような思考。思考がこのように能動化することによって、マクロはミクロへと反転可能となり、主体は客体へと反転し、わたしはあなたへと反転し、死は生へと反転する。そういう世界が、この人間の意識世界を支える裏世界として厳然と存在しているわけだ。ヌーソロジーでいう「ヒト」というのがその裏世界に当たる(ドゥルーズもその世界の住人のことを「ひと(on)」と呼んでいる)。
ヌーソロジーはその来るべき新世界の地図作成に臨んでいると思ってほしい。要は物質を精神へと裏返す作業をすでにマイノリティー(民衆)(ドゥルーズにとって「民衆」とは、やがてやってくる「ひと(on)」のことを指す)として開始しているということ。まだまだ、遠い先のことかもしれないが、今の文明は必ずこの方向へと抜けていく。それを文明と呼んで良ければの話だが。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ドゥルーズ, ニーチェ