5月 6 2005
2013: The Day God Sees God
連休後半、中日の今日は会社に出勤して本日閉め切りの広告原稿の制作を大急ぎで上げた。その後、NC-generatorの外装についての業者との打ち合わせ、スターピープル次号掲載の原稿の校正チェック等、何かとバタバタして終わる。階下の営業の方も注文の電話がなりっぱなしでかなり忙しそうだった。
そんな中、うれしいメールが一通舞い込んだ。カナダ在住のAさんからだ。Aさんはアーティストで人神を読んでヌース理論のファンになってくれた女性。そんなAさんから、サイトに掲載している「人神・英語版」の訳文に対する意見があったのはつい2週間ほど前。原文(日本語版)のニュアンスが正確に訳されてなくてあまりいい翻訳ではない、というご意見だった。現在の訳文はzavetoneという雑誌に5年ほど前に掲載されていたもので、翻訳者はオーストラリアから来ていた学生のBenくんという子。翻訳のプロではなかったので、確かに優れた英訳というわけではなかったが、zavetoneはカリフォルニア当たりにも数千冊出回っている雑誌だったので、掲載をOKした下りがある。
Benくんには本当に申し訳ないのだが、それならばと、Aさんに再翻訳を願い出てみた。すると、一つ返事でOK。今日、その訳文が送られて来たのだ。なるほど、比較して読み直すと、書き直しがかなり入っている。英語がさほど得意でないわたしでも、かなり熟れた表現に変わっているのがわかる。音読したときのリズムもかなりよくなっていて、以前よりもぎくしゃくした感じがなく、文中のKOHSEN/OCOT間の会話に緊迫感が出ている感じがする。ちょっとOCOTの台詞の部分を引っ張りだしてきてみよう。
[The expression of “Plutorian” is not precise. That is because humanoids do not exist on Pluto. To humans, I reflect a more conceptual existence. I think a description of Transformer Gestalt is most suitable. This gestalt has been brought to promote conscious evolution of Earthians.]
ってな具合である。わたしも読みながらついつい嬉しくなって、Macのテキストエディットのネイティブスピーチ機能にかけてみることにした。これがなかなか面白い。(新訳を早速UPしておくので、MacのOSXを使っている「人神」ファンの方はテキストエディットにコピペして、是非、お試しあれ)コンピュータ音声による読み上げは例によって例のごとく無機的で、ところどころ発音や抑揚が無茶苦茶になるが、このチープながさつさが、OCOTの台詞の部分の雰囲気に実に合っている。ってなわけで、この新翻訳にしばらく聞き入ってしまった。
しかし、この「2013: 人類が神を見る日」の英語のタイトルだが、故意に“2013: The Day God Sees God”にしている。これは直訳すると「神が神を見る日」という意味になる。カバラに出てくるアイン・ソフ(神が神を見るという意がある)という言葉を意識してつけた英語タイトルなのだが、英語圏の人にこの言葉の本意が伝わるのだろうか。。。
改めて、Aさん、ありがとうございました。カナダのお友達にも「人神」是非、紹介して下さいね。ひょっとして誰かの目に止まり、アメリカで出版ってこともあり得るかもしれないし………などといった甘い期待は止めにして、テキストを書き続けよっと。
5月 21 2005
サージウスの死神
さっちゃんの本が出た。いや、もう作家の仲間入りをしたのだから、「さっちゃん」ではいくらなんでも失礼だ。敬意を込めて「ヤツ」と呼ぼう。
ヤツの本が出た。去年、群像新人文学賞優秀賞を受賞した「サージウスの死神」が単行本になって発売されたのだ。小説はここ三十年まともに読んだことはなかった。久々に読んだのがこの作品だ。正直、かなりの衝撃を受けた。身内評で言ってるのではない。ひさびさに重金属を感じさせる文章に触れた。いや溶けた重金属というべきか。そんな気がする。わたしは文学には疎い。しかし、この本を満たしている危険な熱は十分感じ取ることができる。この本は、ヘタに読むと脳が焼けただれる。憤怒や情熱などといった人間的な熱によってではない。聖なる悪が帯びた冷熱が一面を覆っているからだ。
暴力には二つの種がある。一つは「神話的な暴力」と呼ばれる。神々は世界を創造し世界から立ち去った。その不在を在の痕跡として、この種の暴力は人間の生の中に刻み込まれる。戦争、殺人、強姦、監禁……、世界の大半の悪はこの神話的暴力によって引き起こされてきたと考えていい。もう一つは「神的な暴力」と呼ばれるものである。この暴力は言葉の中から言葉を喰い破るようにして出現してくる。それは普段は表面には顔を現さない。人間の仄暗い意識下で、それこそ蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、ひとたびそれが動き出すや、たとえ神話的暴力の力を持ってしても制止させることはできない。なぜなら、それは自然そのものに抗う生命の力だからだ。
一つ例を挙げるとすれば、それは革命である。革命には戦いはつきものだ。しかし、その性格は国家VS国家のそれとは大きく異なる。革命は国家VS個体という場所から始まる。その意味において、革命とは、有機体が自己自身を刷新していくために自己の内部で生起させる戦いである。こうした自己変容に関わる力が神的暴力だと考えていい。その意味で、神話的暴力は種の保存に関わり、神的暴力は種の刷新に関わる。神話的暴力は科学に関わり、神的暴力は芸術に関わる。また、別のいい方をすれば、神話的暴力は律法の神の力であり、神的暴力は詩の神の力である。これら二つの暴力の淵源はともにゾーエーにあるが、このゾーエーの制御と解放こそがエゼキエルの車輪を回す動力となっているのだ。
さて、現代に神的暴力というものが存在するや否や——いや、気恥ずかしいが、ここはなるべく分かりやすく言い換えておこう。このワンワールド体制に果たして革命というものが起こりえるか否か——。「ヴァリス」に記されているごとく、確かに帝国を滅ぼしてきた者もまた帝国であったわけだが、この資本主義帝国を終焉に至らしめる者は決して帝国とは呼ばれることはないだろう。それは個体でしかあり得ない。徹底した孤独の中で死に向かって直立することのできる個体でしかあり得ない。人は徹底した個体化の中に初めて真の他者を見いだす。天使的結合はそこでしか起こり得ないのだ。死せる神が貨幣に姿を変えているならば、わたしたちは、それらをすべて焼き払い、その灰の中から立ち上る火の精霊を見いださなければならない。この神聖な火によって初めて鉄の精神は聖なる剣となって精錬される。その聖剣を持って現れるのがソドムの天使である。
「サージウスの死神」とはそんな書物である。本屋に行けばその所在はすぐに分かるはずだ。赤く焼かれた鉄の色。ダビンチの神聖幾何学。グルジェフのエニアグラム。そして、その上に配された擬オカルト的な記号。分裂症患者の数字。この鉄の中に潜む聖なる悪と邪なる善は今や境目をなくし、一体に解け合おうとしている。サージウスの赤褐色が黒と組めば本当の死がやってこよう。白と組めばそれは復活である。ルーレットは回っている。重要なのは頭に飼われた数字ではない。蛇である。ヤツの心の中の蛇が眠らないことを祈る。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 1